2014年03月08日

朝日新聞社の実像を暴く昭和十年代の陸軍と政治 軍部大臣現役武官制の虚像と実像 筒井清忠

 一九三六年に、二十数年ぶりに復活した軍部大臣現役武官制は現役軍人のみが陸軍大臣、海軍大臣に就任しうるという制度である。この制度の復活により、軍部は内閣の生殺与奪の権を握り、その後の政治を支配したというのが従来は昭和史の定説となってきた。

 しかし、この制度で陸軍が暴走し、日本は戦争への道を歩んだという歴史認識は果たして本当に正しいのだろうか。本書は、陸相のポストをめぐって陸軍と首相及び天皇が対立した全事例を精査し、昭和史の常識を覆す注目の書き下ろしである。

昭和十年代の陸軍と政治 軍部大臣現役武官制の虚像と実像の目次

第一章 広田内閣組閣における陸軍の政治介入
第二章 軍部大臣現役武官制の復活
第三章 宇垣内閣の流産「軍の総意」による反対
第四章 林内閣の組閣 梅津次官と石原派中堅幕僚の抗争
第五章 第一次近衛内閣における首相指名制陸相の実現 杉山陸相から板垣陸相へ
第六章 阿部内閣における天皇指名制陸相の登場 畑陸相就任の衝撃
第七章 米内内閣倒壊 畑陸相辞職と近衛文麿の役割
結論

 組閣の大命を受けた宇垣一成が、陸軍幕僚の妨害に遭い、現役の大将もしくは中将を陸軍大臣候補に得られなくなった際、宇垣には内閣総理大臣に就任するための3つの合法的な非常手段があった。当時内閣法制局長官として宇垣の相談にのっていた次田大三郎は東京裁判で次のように証言している。

 宇垣氏の幕僚の多くは斯くては組閣を断念する外なしとの意見を抱くに至りましたが宇垣氏はその意を翻さず昭和十二年一月二十七日参内して湯浅内大臣と会見し先ず陸軍との交渉の顛末を話し、其の対策として第一、陸軍大臣欠損のまま内閣を組織したる上内閣官制の規定(第9条)により総理大臣が其の事務を管理すること。第二予備大中将中の適任者を現役に復せしめて之を陸軍大臣に任ずること。第三、現役大中将の適任者に対し特に陛下から御言葉を賜り陸軍大臣となりて協力することを命じて戴くことの三の案を以て相談を持ち掛けましたが、内大臣は其の三つの方法は何れも陛下に御迷惑を御掛けすることになる。

 我々としては恐れ多き次第であると答え、更に此の場合陸軍大臣に関する官制上の支障は問題ではない。問題の核心は陸軍の熾烈な反対であって右の方法に依り組閣に成功しても新内閣は倒れざるを得ないであろうと答えられたので宇垣氏は陛下には直接御願いする訳に行かず遂に組閣を断念し其の翌々日正式に大命を拝辞致しました。


 著者の筒井清忠氏は膨大な資料を使い次田大三郎の見解を立証し、軍部大臣現役武官制が軍部に内閣の生殺与奪権をもたらしたという半藤一利史観を斬殺している

 問題は全体的政治情勢・政治的磁場における陸軍と首相(または天皇・宮中勢力)の力関係の中にあったのである。陸軍が政治勢力として強ければ軍部大臣現役武官制でなくとも、広田内閣の組閣への介入のような強力政治介入が可能であったし、弱ければ第一次近衛内閣の杉山陸相の交代劇のように首相によって陸相は取り替えられたのである。陸軍の内部に深刻な対立を抱えていた(従って対外的政治勢力としては弱かった)阿部内閣組閣の際の天皇の畑陸相指名による陸軍三長官会議の決定撤回はその典型的ケースといえよう。

 軍部大臣現役武官制によると考えられた意思決定は陸軍の政治的反対意思表明のバロメーターとはなるが、決定的政治的要因となるものではないのである

 ではなぜ、これまで、軍部大臣現役武官制は陸軍政治進出の主要因として重視されてきたのか。以上の考察からあらためて浮かび上がってくるのは、この時期の政治過程における宮中(特に近衛)やマスコミの役割であるが、軍部大臣現役武官制原因説はこれらの責任を相対化する役割を果たしてきた可能性が高い。


 ではなぜ、戦後ひたすら軍部大臣現役武官制原因説を喧伝した者たちは、近衛やマスコミの責任を相対しなければならなかったのか。この疑問の解明には踏み込まない筒井清忠氏に、閉ざされた言語空間から脱出できないプロ学者の限界が見える。

 筒井氏は第5章で近衛の狡猾な責任転嫁術を暴いている。近衛が昭和天皇と閑院宮参謀総長を動かして杉山陸相を辞職に追い込み、板垣征四郎を新陸相に起用した際、陸軍次官に東條英機を選んだのは近衛自身なのである。鈴木貞一から板垣が直属の部下に左右される人物であることを聴取した近衛は、使者の古野伊之助を通じ、陸軍大臣就任の条件として「東條次官任命」を要請し、板垣にこれを受諾させたのである。

 そして案の定、板垣陸軍大臣が日中戦争の終結に力を発揮できず、近衛が外相に宇垣、陸相に板垣を迎えたにもかかわらず、支那事変を解決できなかったことに対して批判が高まると、「杉山と梅津が置き土産に東條次官をすえておいたせいだ」といい、敗戦後に出した平和への努力には、板垣起用を多田駿と石原莞爾の計画だと真っ赤な嘘を書いたのである。

 また近衛が板垣の盟友にして不拡大早期和平論者の石原莞爾ではなく、石原と対立していた東條をわざわざ次官に起用したのは、板垣の起用それ自体が近衛の正体を隠蔽する演技にして、この時期に始まった汪兆銘工作を和平工作に見せかける偽装工作であったのだろう。

 近衛は自分の行為を他人の行為に摩り替えて責任を他人に転嫁し、そのためには平然と嘘をつく人物であり、近衛にだまされた人々によって今なお虚偽の歴史叙述が延々と繰り返されているのである。しかし筒井氏はこれ以上は踏み込まない。

 筒井氏は伊藤隆氏の近衛新体制−大政翼賛会への道を使っているから、当然のこととして新体制運動の中心人物がソ連のスパイ尾崎秀実であったことや、尾崎が上からの政権奪取−米内内閣の総辞職と第二次近衛内閣の発足に深く関与していたことを知っている。

 しかしこの研究書には尾崎秀実は登場しない。筒井氏は近衛に対する伊沢多喜男の警告書「新体制運動のため今近衛周辺にいる人物の九十パーセントは偽装愛国者なので危険極まりない」を紹介しながら尾崎のおの字も出さないのである。やはり平間洋一氏の指摘した通り、今なお我が国の学会では尾崎秀実の謀略活動はタブーなのであろう。

 この他にも本には興味深い指摘があった。陸軍省の官制が改正され職員定員表から「大臣将官」の削除された1891年から山縣有朋内閣が軍部大臣現役武官制を決定した1900年まで文官が軍部大臣に就任できる状態が続いたのである(日本軍閥の興亡/松下芳男)。

 確かに帝国憲法および憲法義解の中には憲法第12条の編成大権を輔弼する国務大臣は武官に限るという規定および解釈はない。軍部大臣武官制はあくまで官制(勅令、法律の下位の行政命令)であって帝国憲法固有の解釈ではないのである。

 だから1913年には陸軍省官制が改正されて軍部大臣就任資格が現役、予備、退役の将官に拡大され、ワシントン会議の際は原敬首相が内閣官制第9条に拠り海軍大臣事務管理を兼任し、大正期から昭和初期にかけて帝国議会では政党が盛んに軍部大臣武官制を政党政治の最大の敵として攻撃していたのである(内閣制度の研究 1943年/山崎丹照、明治軍制/藤田嗣雄)。

 そしてもう一つの特徴はマスコミに対する冷静な批判であった。筒井氏は筆者のようにマスゴミなどという下品な皮肉を使わずに、淡々と多数の第一次史料に真実を語らせているだけだが、それが音なく降り積もる雪のごとく実に冷酷で情け容赦ないのである。

 筒井氏は「例えば朝日新聞は連日のように独伊の優勢とイギリスの劣勢を論じ」といって朝日新聞の記事を俎上に載せているが、当時の朝日新聞をはじめ新聞社の煽動は、いま読んでも背筋が寒くなるくらい凄まじかった。

 ヒトラーの戦争指導を褒めちぎり、日本の親米英論者を非難し、バスに乗り遅れるなと叫んで、政府のみならず陸軍内部にもあったドイツ軍の勝利への疑念と日独伊三国同盟への反対を押し潰すわ、平然と陸軍側の見解と外務大臣の遺憾の意を捏造して発表するわ、新聞記者が西園寺公望の秘書であった原田熊雄のところにいって根も葉もない米内内閣の悪口をいって、余りにひどい記者のデマを打ち消した原田の発言を、政府を庇うものとして軍部に告げ口をして、一部の軍人を憤慨させて重臣攻撃を強化するわ、もうやりたい放題であった。

 実証史学者の間にも朝日新聞社の偽善に対する義憤が広がっていることを教えてくれる便利な本−膨大な典拠を明示して読者の調査を助けてくれる本が昭和十年代の陸軍と政治−軍部大臣現役武官制の虚像と実像です。

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 戦前に国民の犠牲を省みない「大言壮語の戦争」を煽った人物達、実は彼らこそが左翼の革新主義者であり、人民戦線戦術で潜った人々だった。
 そして彼らは自分たちの戦前の策動を秘匿し、凡ての罪を軍部全体に擦り付けて、戦後においては国民の安全を省みない、「大言壮語の非武装平和主義」を唱えた。

 以上の真実を暴露する日日本主義と東京大学―昭和期学生思想運動の系譜が出てきたのだから、少しずつ日本国の病は少しずつ快方に向かいつつあると信じたい。
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posted by 森羅万象の歴史家 at 09:00| 憲法学の名著と迷著 | 更新情報をチェックする