2014年03月13日

明治流憲法学奥義秘伝の原稿-君主の裁可公布権

 枢密院帝国憲法第六條草案参照にある「人あるいは国王制可の権(法律を裁可する権、裁可しない権)、暴横に病むという者ありといえども、また代議員横断の甚だしきに至らず。何となれば国王及大臣は事業経験の力多ければなり」は、日本政治の現状に照らして至言である。

 枢密院帝国憲法制定会議史料が我々に示す明治流憲法学の奥義は、伊藤博文ら帝国憲法起草者が欧米の憲政史を徹底研究して立法部による権力侵害の危険性とくに代議院の横暴を熟知し、これを抑制するために、君主(天皇)に法律を裁可しない権(拒否権いわゆるベトー)を持たせ、立法承認権と予算承認権という強大な権限を持つ議会を衆議院と貴族院に二分割して、自由を維持する権力分立均衡型の立憲統治の構築に努めていたということである。

枢密院帝国憲法草案第六條 天皇は法律を裁可し其の公布及執行を命ず

【枢密院に提出された第六條注解】

 恭して按ずるに、天皇は法律を裁可し之を議会に宣諭せられ、而して裁可の後更に式に依り公布せしめ、始めて施行の効力あり。此れ皆至尊の大権なり。裁可及公布の大権既に至尊に属するときは、其の裁可せざるの権及公布執行の緩急を定むるの権は従て至尊に属すること、謂わずして知るべきなり。

 古言に、法を訓みて宣(のり)とす。播磨風土記云、大法山(オオノリヤマ今名勝部岡)品太天皇(応神天皇)於此山宣大法故曰大法山と。夫れ言語は史学に於て古伝遺俗を徴明するの一大資料たり。而して法律は即ち王言なることは、古人既に一定の釈義ありて謬らざりしなり(※1)。

 之を欧州に参考するに、君主法律の成議を拒む(ベット)の権を論ずる者、其の説一に非ず。英国に於ては此れを以て君主の立法権に属し、三體(君主及上院下院を云う)平衡の兆證とし、仏国の学者は此れを以て行政の立法に対する制御の権とす(コンスタン、パンジヤマン氏著書に見ゆ)。

 而して此の拒否の権を行うに亦二種の同じからざるあり。

 其の一は全廃(アブソリュート)の権とし、凡そ法律を発布するに君主の裁可なきときは法律の効力を成さざるを云う。

 其の二は中止(シュスペンション)の権とし、君主又は大統領一次又は両次裁可を拒むの後、議会仍再三其の議を執るときは裁可なしと雖(いえども)亦法律の効力を成すを云う。此の第二の方法は実に議会に與(あた)うるに立法終結の権を以てせる者にして、米国及那威(ノルウェー)の外に之を行う者あるを見ず。

 而して其の第一の方法、英国に行わるるに至ても、亦徒に其の空名を存するに過ぎず。二百年来(千六百八十九年以来)実際に此の権を施用することなしと云う。抑々(そもそも)拒否の権は消極を以て主義とし、或いは君主の大権を以て行政に限局し、或いは君主をして立法の一部分を占領せしむる所の君民共治の論理に出る者なり(※2)。

 我が国の憲法は法律は必ず王命に由らしむる積極の主義を取るものにして、彼の拒否の権と其の跡相似を其の実は霄壌(しょうじょう-霄は空、壌は土)の別ある者とす。

【枢密院に提出された第六條参照】

葡(ポルトガル)第七十四條 王は左の件々に由て節制権を執行す
第三 国会の提案及議決を制可して法律の効力を與うる事

白(ベルギー)第六十九條 王は法律を制可し及公布す

伊(イタリア)第七條 王は独り法律を制可し及公布す

荷(オランダ)第百十五條 法律案は王及国会の認可を経た後法律たるの効力を有す而して王之を公布す国法は犯すべからず

普(プロイセン)第四十五條 王は法律の公布を命じ而して其の施行の為に必要なる命令を発す

墺(オーストリア)行政権憲法第十條 法律は憲法に従い両議院承認の由を記し責任執政の対署に依り皇帝の名を以て之を公布す

西(スペイン)第四十六條千八百三十七年 王は法律を制可し及公布す

<憲法に制可及公布の期限を指定する者左の如し>

葡(ポルトガル)第五十九條 王は各箇法案に対し奉呈の日より一箇月内に其の制可を與え又は之を拒む

仏(フランス)千八百四十八年第五十七條 緊急なる法律は国会の決議を経たる日より三日間に之を公布し他の法律は一箇月間に之を公布す

丁(デンマーク)第二十四條 国会の決議したる法律に其の効力を與うる為には王の制可を得るを必要とす王は法律の公布を命じ及其の施行を監督す
両院に於て認可したる法律案は次の集会の前に王の制可を得ざれば其の効力を失う者とす

荷(オランダ)第百十六條 法律は各種法律の公布式及執行の期限を定む

<制可之権>

 議院に法を議して国王之を制可するの権は、各国建国法の同じく掲ぐる所にして、其の制可を拒むの権、亦其の中に在り。

 「バルジヤマン、コンスタン」氏曰く、行政権は其の法危険なるを知る時は之を対拒するの権を有す。蓋し己れ善可せざるの法を勉強して行うの政府あることなきなり。若し之あらしめば政府将に其の力を失い、其の體面を失い、其の下に使役する者亦其の命を守らざるに至らんとす。

 人或は国王制可の権、暴横に病むという者ありといえども、また代議員横断の甚だしきに至らず。何となれば国王及大臣は事業経験の力多ければなり。

 「プイランジェリ」氏曰く、交架の政府(立憲君主政体を云う)に在て、国王は其の政府を構成する三體の一たるを以て、他の二體の決議を沮格(沮は阻、はばむ、さまたげる)するの権威を有つこと当然とす。

 その故は、第一に立法権を行うに三體合同を要す(三體とは上下二院及国君をいう)。第二に若し沮議の権、国王に属せざらしめば、立法部は一の阻障あるを見ず。専横侵冐、以て行法部(法律を執行する行政部)を蔑如するに至らんとす。

 議決を沮格するの権分けて二類とす。其の一を全廃の権とす。全廃とは凡そ法を成すに、国王の制可、必要欠くべからざるに属するもの是なり。其の二を中止の権とす。国王一次或いは両次制可を拒むの後、立法部再三其の案を進むる時は制可なしと云えども、また法の力を成す者是なり。

 人謂う、建国法の国王の手に成れる者は多くは全廃の権を有し、其の議会の手に成れる者のは多く国王に與うるに中止の権を以てするに止まると。米利堅合衆国は即ち中止の権を用う。

 決議中止の法は、実に議会に與うるに立法の全権を以てするなり。何となれば議会実に終決の権を有し、多少延留の後を待ち遂に其の意を達するを以てなり。

 議決全廃の法は、国君に帰するに立法の一部分を以てするなり。英吉利(イギリス)に於ては議決全廃の法を用うと云えども、千六百八十九年以後殆ど二百年、王家此の権を用いることなし。

 蓋し立憲の論に拠るに、諸宰臣行う所の国政は国民の好みを印する者なり。故に国民と政府と諧同せざる時は、或いは宰臣を罷めて他の諸人を用い、或いは議会を解散して以て新撰議会の叶議を待つ。是両々不諧を除くの方法なり。議決全廃の法を行うときは前と相反し、往々議院をして萎薾に帰せしめ、又宰相諸臣をして民望を失わしむるに至る。

 右「エミルセヂウ」氏に拠る。

 
【交詢社系の私考憲法草案(明治十四年五月二十一日郵便報知新聞社説、カッコ内は交詢社の私擬憲法案)】

第二條 皇帝は左右両院において議決せる日本政府の歳出入租税国債諸般の法律を批准す
(第三條 日本政府の歳出入租税国債及諸般の法律は元老院国会院において之を議決し天皇の批准を得て始めて法律の効あり)

第二條注解
 凡(すべ)て治国に係わるの事は尽(ことごと)く皇帝陛下の行わせたまう所なるを以て両院において議決する所のものは皇帝陛下の批准を経るにあらざれば法律たるの効なきものとす英国憲法の如き亦然り。


【筆者の補足説明】

※1、播磨国風土記揖保郡は大法山という地名の由来を以下のように記録している(播磨国風土記22ページ)。

 大法山(おおのりやま)。(今は勝部岡と名づく。)品太天皇(ほむだのすめらみこと)、此の山に大法(おおきのり)を宣(の)りたまひき。故、大法山と曰ふ。今勝部(すぐりべ)と号(なづ)くる所以は、小治田河原天皇(斉明天皇?)の世に、大倭(おおやまと)の千代の勝部等を遣わして、田を墾らしむるに、即ち此の山の辺(ほとり)に居りき。故、勝部岡と号く。

 大法(おおきのり)のノリは祝詞(のりと)のノリと同じく、胸中の思想を外部に延べ拡げるという語源を持ち、我が国の古代では法律、道徳、宗教を包含する広汎な規範であった。播磨国風土記の大法山の故事は、応神天皇の時代には天皇の宣命がノリとなっていたことを伝えており、瀧川政次郎の見解によれば、それ以前のノリは神懸りとなった巫女や呪術者の託宣であったという(日本法制史上98~100ページ)。

※2、イギリスの国体は君民共治である。君民共治とは、国王と貴族と人民という三体が議会に集いイギリスを統治することである。

 全行政権を掌握している国王も、どの法律に対しても拒否権を行使することはできても、彼自身が法律を制定することはできないのである(ザ・フェデラリスト第47篇「権力分立制の意味」216ページ)。

 伊藤博文著憲法義解大日本帝国憲法義解第六條解説は「そもそも彼(イギリス君主)の所謂拒否の権は消極を以て主義とし、法を立つる者は議会(上院下院)にして之を拒否する者は君主たり」と述べている。

 枢密院帝国憲法制定会議では、森有禮が第六條草案中の「法律」という用語について「法律と云えば既に裁可になりたるものを云うならん。然るに本條に於て法律と云うは如何乎」と質問した。

 井上毅は「御もっともの御尋ねなり。法律の効力より云えば、貴説の通りなり」と森の意見に同意しつつも、ベルギー憲法に第六十九條「王は法律を制可し及公布す」があることを指摘し、

 「オランダ憲法第百五十條法律案は王、及国会の認可を経たる後法律たるの効力を有す而して王之を公布す、とありて、裁可の前後を別ち、法律案と法律とを書き分けたる例もあれども、ベルギーにならい、天皇の裁可権を掲ぐるの條に法律を裁可すと書くも、また決して失当の言に非ず」

と答えた。かくして帝国憲法草案第六條は修正されることなく可決され、帝国憲法第六條となった(帝国憲法制定会議173~174ページ)。
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posted by 森羅万象の歴史家 at 05:00| 大日本帝国憲法の真髄 | 更新情報をチェックする