2014年03月20日

ひと目でわかる日中戦争が拡大長期化した原因と元凶−近衛文麿と尾崎秀実の国家犯罪

 第二次世界大戦の終了後、中国共産党は戦勝者の余裕あるいは油断からなのか幾度か日中戦争(支那事変)の真相を日本国民に漏らしたことがあった。

 一つは、1964年に中国共産党の毛沢東が日本社会党の佐々木更三に「何も謝ることはない。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしてくれた。これのおかげで中国人民は権力を奪取できた。日本軍なしでは不可能だった」と語ったことである。

 そしてもう一つは、中国共産党が西園寺公一(朝日新聞出身のソ連スパイ尾崎秀実の親友で、近衛文麿の側近。ゾルゲ事件に連座)を厚遇したことである。

【西園寺公一の戦後(ウィキペディア)】

 この間、1957年に世界平和評議会の大会をセイロンで開くことになって中華人民共和国に相談に立ち寄った際、同国から「人民交流」の日本側の窓口となる人物の推薦を頼まれたことがきっかけで同国の「民間大使」となる[4]。

 日本に帰国してから間もなく、家族を連れて中華人民共和国へ移住、日中文化交流協会常務理事等として北京にて国交正常化前の日中間の民間外交に先駆的役割を果たした。アジア太平洋地域平和連絡委員会副秘書長としての月給は500元(毛沢東の月給は600元)と大臣クラスの待遇だった[5]。

 昭和33年(1958年)には日本共産党に入党するも、のちに日中共産党が不和となった結果、文化大革命初期の昭和42年(1967年)2月に北京滞在中に「日本人の勤労人民としての生活経験をもたず、中華人民共和国においても、社会主義の政府によって与えられている特恵的な生活になれて」、「特定の外国勢力に盲従して、分裂と破壊活動に狂奔するようになった」(『赤旗』)旨を以て除名処分となる。

 1970年8月、12年7ヶ月ぶりに日本へ帰国。以後国内で言論活動を行い、中国共産党や毛沢東、江青等を賞賛。自らが文化大革命の中で中華人民共和国を事実上追放されたにもかかわらず、文化大革命を礼賛する言動を続けた。既に文化大革命中より多方面から批判を浴びていたが、文化大革命が終結しその実情が暴かれ、さらに中華人民共和国内で文化大革命に対する批判がされた後は言論人としての立場を失った(後述)。


 岡村寧次大将は、「汪精衛を中心とする和平中国政府の樹立を以て対重慶和平妥協を計るが如きは、至難にして寧ろ逆効果になる」と汪兆銘政権樹立工作に反対し、北支那方面軍司令官(昭和十六年七月〜十九年八月)として「滅共愛民」「三戒(焼くな、犯すな、殺すな)」を掲げ、治安維持のための掃共戦を指揮し、抗日ゲリラ活動を展開していた中共八路軍に壊滅的な損害を与えたため、我が国の敗戦後、中国共産党は岡村寧次を戦犯第一号に指定し、北支那方面軍の掃共戦を「三光(焼くつくす、犯しつくす、殺しつくす)作戦」と非難した。

 しかし西園寺公一は、反共和平を標榜した汪兆銘政権樹立工作の主務者であり、また国家総動員法発動と近衛新体制運動に象徴される我が国の1940年戦時体制を作り上げた近衛内閣の最高政治幕僚の一人(朝飯会、昭和研究会に所属)であったにもかかわらず、我が国の敗戦後、中国共産党は西園寺公一を中華人民共和国の民間大使として厚遇した。

 中国共産党は日本の1940年戦時体制を「軍国主義」「ファシズム」と罵倒して止まないのに、なぜ中華人民共和国に移住した西園寺を戦犯ではなく賓客として手厚くもてなしたのか?

 それは、中国共産党にとって西園寺公一が尾崎秀実と一緒に、日中戦争を拡大長期化させ中国共産党の勢力拡大に奉仕した功労者だったからに他ならない。

 はだしのゲンとは比較にならない資料価値を持つ「大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義」こそ公立学校の図書館に蔵書されるべきである。

【ひと目でわかる日中戦争が拡大長期化した原因と元凶】

「帝国政府は南京攻略後なお支那国民政府の反省に最後の機会を与うるため今日におよべり。しかるに国民政府は帝国の真意を解せず、みだりに抗戦を策し、内人民塗炭の苦を察せず、外東亜全局の和平を顧みるところなし。よって帝国政府は、爾後国民政府を対手とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、是と国交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす。」(1938年1月16日、第一次近衛声明)

「爾後国民政府を対手とせずと云うのは、同政府の否認よりも強い意味をもつものである。国際法でいえば、国民政府を否認するためには新政権を承認すればその目的を達成するのであるが、正式承認できる新政権ができていないので、とくに国際法上新例を開いて国民政府を否認し、これを抹殺するのである。」(1938年1月18日、第一次近衛声明の補足声明)

「我々は事変の初期に於ては、この事件の持つ重大性を予知して、両国のために速なる解決と和平の手段を発見すべきことをひそかに希うたのであるが、その後事件が現在の如き決定的な、完全なる規模に展開を見た以上、もはや中途半端な解決法というものが断じて許されないのであって、唯一の道は支那に勝つという以外は無いのである。面をふることなき全精力的な支那との闘争、これ以外に血路は断じてないのである。」(中央公論1938年6月号の尾崎秀実著「長期戦下の諸問題」)

「漢口の実状は共産党の勢力七分という形勢なり、蒋の下野は本人も希望なれども下野すれば混乱して収拾し難き故あと引受人なし、たとえ協議してやるも講和条約を実行することも不能なり。共産党の細胞組織は広く行き渡れり。日本の捕虜も赤化して放送などせり。日本の対支占領は点、線、遍の中、点線丈けなり。漢口陥落せば、赤の蔓延、手の下しようなくなるべし。」(1938年7月22日、小川平吉に対する萱野長知の報告)

「日本の武漢攻略の目的は、国民政府の政治軍事上の重要拠点を撃破することの重要性は無論のことであるが、寧ろ、その結果、蒋政権が地方政権に転落して奥地に移転することからして生じる二つの大きな事実に期待しているということが出来るであろう。

 第一は、所謂赤色ルートを中断し、共産党と国民党との地盤を分離せしめることによって国共両党の分裂に導かんとすること、第二には、全く転落し偏在する国民政府に対する列国の期待を棄てしめ列強をして国民政府援助から手を引かしめんとすることにあるのである。
 武漢喪失は共産党にとって何よりも打撃であり、また支那を共産党の側から援助しつつあるソ連にとっても少なからざる打撃を受けることとなるであろう。」(大陸1938年9月号の尾崎秀実著「漢口攻略の意義」)

「漢口攻略戦は順調に進展しているが漢口の陥落で事態の結末がつくかどうかは疑問だ、我方としては飽迄容共抗日を標榜する蒋政権の徹底的壊滅に邁進するのみだ。漢口攻略前後には色々と重大な動きや問題も生ずると思われるので帝国政府の態度を闡明する声明を発するつもりで目下声明の案及び其の時期に付て研究を進めているが、結局蒋政権が一地方政権に堕したという烙印を押すということになるであろう。」(1938年9月16日、朝日新聞社が報道した近衛文麿首相の談話)

「帝国が支那に望む所はこの東亜新秩序の任務を分担せんことに在り、帝国は支那国民が能く我が真意を理解し以て帝国の協力に応えんことを期待す。固より国民政府と雖も、従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更生の実を挙げ新秩序の建設に来り参ずるに於ては敢えて之を拒否するものにあらず。」(1938年11月3日、第二次近衛声明) 

「政府は本年両度の声明に於いて明らかにしたる如く、終始一貫、抗日国民政府の徹底的武力掃蕩を期するとともに、支那における同憂具眼の士と携えて、東亜新秩序の建設に向かって邁進せんとするものである。」(1938年12月22日、第三次近衛声明)

「東亜協同体と云っても、その中にいろいろなものが入っているからね。僕の考えでは、支那の現地に於て奥地の抗日政権に対抗し得る政権を造り上げること、それが一朝一夕に仲々むづかしいとするならば日本がそれを助ける方策、有効な方策を採って行く

 そういう風な一種の対峙状態というものを現地に造り上げて、日本自身がそれに依って消耗する面を少なくして行く…曽って或る時代の日本が考えたような形で征服なり、解決したりするというのではなくて、そういう風な条件の中から新しい…それこそ僕らの考えてる東亜協同体―本当の意味での新秩序をその中から纏めて行くということ以外にないのじゃないか。」(中央公論1939年5月号に掲載された座談会「第二次世界大戦と極東」における尾崎秀実の締め括り発言−出席者は細川嘉六、堀江邑一、城戸又一、丸山政男、尾崎秀実、平貞蔵)

第三案政府樹立案(註、汪兆銘政権樹立案)は、対立政権に堕し長期大持久戦に陥るの公算大にして、斯くの如き事態に政府及国民を決意せしむることは容易の業に非ず。汪政権を以て解決政府たらしめんとするの希望は、ハノイにおける期待外れ以来汪兆銘の真意乃至真価に数段の変化あり。之を直視せずして当初の夢を持続するは情勢認識の錯誤なり。」(1939年6月10日、来日した汪兆銘の打診に対する陸軍参謀本部作戦課戦争指導班長の堀場一雄中佐の判断)

「新中央政府の樹立決定は事前合流か事後合流か或いは両政府対立永久抗争かの予見と之に応ずるの対内外決意とを確立し一大決心を以て之を行う。是今事変の運命を決すべき最大の決心なり。今や国民政府相手にせずの自らの声明に束縛せられ軽率なる新中央政府樹立乃至態度決定は百年の悔を遺すものなり。」(1939年7月5日、陸軍参謀本部戦争指導班の事変解決秘策案)

日本の当局者の責任は与うかぎり速かに汪運動の全貌を国民の前に明らかにし、国民をしてこれを理解せしむるべきである。汪精衛運動が支那再建の唯一の方策であり日本としては全力を挙げてこれを守る以外に良策なきこと、しかもこれは日本が後日大陸に雄飛し得べき具体的な足がかりを提供するものであることを明らかにすべきである

 日本人はまず心を虚しうして汪運動の前進をはかるべきである。戦勝者の威容をつくることも悪くはあるまい、特殊の要求を持ちこむことも技術的に不可能ではあるまい。後日の保障を求めて置くことも無意味ではないかもしれない。しかしながらあらゆる問題の中で何が一番大切かといえばともかくも多くの困難なる条件によって発展の可能性を縮小されている汪精衛政権の誕生と発展とをはからなければならないということである
 汪精衛運動が民族運動のヘゲモニーを重慶政権との間に争うべき最後の段階はやがてその後に到達するであろう。」(公論1939年11月号の尾崎秀実著「汪精衛政権の基礎」)

「汪兆銘のかいらい政権の承認は、日本が国民政府と蒋介石の破壊を決意したことを意味する。そうなれば、米国と日本の直接対決は不可避となるだろう。」(1940年11月30日、アメリカ駐支大使ネルソン・ジョンソンの発言)

「敵軍閥が一昨日、汪逆賊のニセ組織を承認し、同時に、敵とニセ組織がニセ条約を発表した。和平のデマ攻勢に失敗した敵が採った、道理に反する荒唐無稽な行動である。この種のホゴ同然のニセ条約は、ニセ組織が、自由意志を完全に封じられて、甘んじて日本の奴隷となることを承認したものであり、根本的には一顧だの価値もない。

 しかし、中日両国の仇恨史上、将来ひとつの重要な資料となるであろう。しかも、この一枚のニセ条約は、中日両国の戦禍を無窮に延長し、中日両民族間に、百世にわたっても解けない仇恨をもたらすものである。これは、近衛内閣(第二次)最大の罪悪である。」(1940年12月2日、国民党中央党部の拡大総理紀念週に出席した蒋介石の対日非難声明)

尾崎秀実、西園寺公一が雑誌等に論文を執筆して汪兆銘工作が日本の執るべき唯一の道であることを強調していた。」(1942年4月21日、ゾルゲ事件の第三回検事訊問に対する犬養健の証言)

「南京政府の存在は却って重慶政府に対する和平工作の妨害になっている。」(1944年10月16日、小磯国昭首相に対する宇垣一成大将の報告)


 日本政府が大日本帝国の交戦相手である中華民国の国民政府(蒋介石)を相手にせず、これを完全否認すれば、日中間の和平は成立しないどころか、和平交渉それ自体が困難になる。

 それにもかかわらず、なぜ近衛文麿首相は、長期戦の危険性と早期和平の必要性を内閣に訴えた陸軍参謀本部の猛反対(1938年1月15日大本営政府連絡会議)を押し切り、成功寸前まで漕ぎ着けていたトラウトマン和平工作を打ち切り、国民政府の抹殺を宣言したのか?

 第一次近衛声明の発表後、幾度か日中の有志が困難を乗り越えて日中和平を実現するための機会を作り出し、我が国の政府軍部議会内にも、汪兆銘政権の樹立を危険視し蒋介石政権を直接相手にして日中和平を早期に実現する必要を訴える勢力が存在した。

 それにもかかわらず、なぜ近衛首相は日中和平の機会をことごとく潰して汪兆銘政権の正式承認を強行し、蒋介石の国民政府を完全否認したのか?

 所長のような戦史法学徒が以上の疑問を解くために丹念に第一次史料を調べていくと、汪兆銘工作が三次にわたる近衛声明と連動していたこと、汪兆銘政権の樹立を推進した勢力の中心に近衛文麿の最高政治幕僚であった朝日新聞出身のソ連スパイ尾崎秀実がいたこと、そして尾崎が支那問題の権威として支那事変の拡大長期化をひたすら煽動正当化していたことに気付く。

 そうすると尾崎秀実が西園寺公一ら共に推進した汪兆銘工作の正体が一目瞭然となる。すなわちそれは、日中(大日本帝国と蒋介石の中華民国国民政府)の戦力を消耗させ、尾崎秀実の狭義の任務であったソ連の防衛と中国共産党の勢力拡大(いわゆる漁夫の利)を図るための支那事変長期化工作であり、尾崎の広義の任務であった東亜新秩序の実現―世界資本主義体制に代わる共産主義的世界新秩序を構成する東亜共産主義社会を実現するための作為戦争謀略であったと言わざるを得ない。

 「我々は静かに『聖戦』の意味について三思する必要がある。今日一部に於て、もしも日本がその大陸に対する要求を具体的に明瞭に形の上に現わすのでなければ尊い血を流した勇士たちは瞑することが出来ない、又艱難辛苦しつつある出征兵士たちがおさまらないであろうとの説をなすものがある。絶対に正しからざる説である。恐らくは心事高潔ならざる輩が自己の心事をもって推しはかったものであるに違いない。一身を抛って国家の犠牲となった人々は絶対に何等かの代償を要求して尊い血を流したのではないと我々は確信するのである。東亜に終局的な平和を齎すべき『東亜における新秩序』の人柱となることは、この人々の望むところであるに違いないのである―。」(尾崎秀実著中央公論昭和十四年一月号「東亜協同体の理念とその成立の客観的基礎」)

 1937年から1939年にかけて日中間に和平友好親善提携が成立すると、我が日本国は近衛内閣発足の約1ヶ月前に陸軍省に採択された石原莞爾の重要産業五カ年計画を実行に移して対ソ戦備を拡充し、満洲帝国と共に臨機に北進して、我が国のシーパワー(海軍力)が及ぶ北樺太と沿海州をソ連から奪還し得ただろう。

 当時ソ連の人民とくに軍人の間には、大粛清という大虐殺を繰り返すスターリンに対する怨恨と憎悪と復讐心が渦巻いており、日満両国は彼等を懐柔し、ソ連の極東地域をソ連から分離独立させるべきであった。

 日中和平の成立後、蒋介石の国民政府は直ちに第二次国共合作を破棄し、蒋介石が密かに準備していた第六次反共戦を実行に移し、中国共産党を殲滅していただろう。実際に蒋介石は、政友会の長老として日中和平工作に従事した小川平吉にそのことを伝えていた。

 1939年6月、香港から帰国した小川平吉は、

「蒋介石は多数要人と同じく心中和平を希望して其の時期を窺うと共に、講和の場合を慮り共産軍に対する中央軍の配置を完うし、又中央軍に対する共産党の侵入を杜絶し、其の宣伝を禁じ、学生青年等の赤化防止に力を尽くせるは顕著なる事実なり。彼は長期戦争の結果、両国倶に傷つきて共産党の乗ずる所となるを深憂し、其の体面を損ぜざる範囲と時期とに於いて講和を締結せんことを今尚熱望し居ること毫も疑なし」

と日本政府の要人に報告しており、もし不幸にも汪蒋両政権の勢力が拮抗して互いに相下らなければ、日支親善の実は挙がらず、共産党はこの間に乗じて益々地方に勢力を扶植し、東亜の平和は永く攪乱せらるる虞がある、と危惧していた。

 尾崎秀実の戦時論文(一覧表はこちら)が21世紀の我々日本国民に教示している汪兆銘政権樹立工作の真の狙いは、まさに小川平吉の危惧あるいは日本帝国陸軍参謀本部戦争指導班が抱いた危惧の現実化であった。

 つまり1937年から1939年の日中間の和平友好親善提携は、極東地域の国際共産主義勢力(ソ連と中国共産党)が壊滅する可能性を飛躍的に高める国際関係であった。だからそれを阻止するために、マルクスレーニン主義に傾倒していた革新貴族の近衛文麿は、尾崎秀実や西園寺公一ら昭和研究会に結集した右翼−国体の衣(天皇尊重の偽装)を着けた共産主義者−とともに、言葉巧みに汪兆銘と昭和天皇と日本国民を騙しながら日中和平の成立を妨害し、日中戦争を拡大長期化させ、これを対米英戦に発展させたのである。

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posted by 森羅万象の歴史家 at 18:00| 憲政史の真相 | 更新情報をチェックする