2015年07月29日

復活の意味−ジョセフ・グルーとポツダム宣言第10条the revival and strengthening of democratic tendencies among the Japanese people

 機動戦士ガンダム第26話の題名は「復活のシャア」である。この題名が示す物語の内容は、シャア・アズナブルが第26話以前に活躍したものの、一旦没落し、第26話以後に再び活躍するということである。

 シャアが第26話以前に活躍していなかった、もしくは登場していなかったのであれば、「復活のシャア」という表現は成り立たない。

 「復活」とは、それ以前に、ある人物・勢力・制度などが活躍隆盛したものの、様々な理由から没落衰退した後、復(また)以前と同じように活力を取り戻し隆盛することだからである。

 ポツダム宣言第10条2項は「日本国政府は、日本国国民の間に於けるデモクラシー的傾向の復活強化(註、原文はthe revival and strengthening of democratic tendencies among the Japanese people)に対する一切の障礙を除去すべし」である。

 第10条2項の「復活」が示す重要な事実は、アメリカ・イギリス・中華民国がポツダム宣言を発表した1945年7月26日以前の日本国の国民の間にデモクラシー的傾向が隆盛したものの、衰退したということである。またそのことがこの三カ国によって公式に認められたということである。

 しからば三カ国によって認められた、ポツダム宣言発表以前の日本国の国民の間において隆盛し衰退したデモクラシー的傾向とは何か。それは言うまでもなく大日本帝国憲法下における立憲議会制デモクラシーである。

 より具体的にいえば、政党内閣を生みだし、また度重なる右翼(国体の衣を着けた左翼)革新勢力のテロに屈することなく、陸軍中央の傀儡政権であった林銑十郎内閣を退陣に追い込んだ(1937年4月30日の第20回帝国議会衆議院議員総選挙の結果)ものの、近衛文麿および朝日新聞出身のソ連スパイ尾崎秀実ら近衛の革新幕僚たちによって破壊された政党政治である。

 1937年1月22日の第七十三回帝国議会において近衛文麿首相は「以上の如き考えによりまして政府はここに必要なる法律案および予算案を提出するものであります、よろしく政府の意のあるところを諒とせられ協賛を与えられんことを切望する次第であります」と施政方針演説を締めくくった。

 大日本帝国憲法第五條「天皇は帝国議会の協賛を以て立法権を行う」の英訳文は、The Emperor exercises the legislative power with the consent of the Imperial Diet.である。consentの邦訳は承認(承諾)ないし同意である。

 帝国憲法は国政全般を支配するに足る立法承認権と予算承認権を帝国議会に付与した。そして我が国はこの帝国憲法の下で、1937年7月7日の支那事変の勃発までに、司法権の独立、公選議院に対する国民の参政権(選挙権と被選挙権)、内閣が国民に信を問うために行う衆議院の解散、複数政党制、政党内閣、普通選挙、自由な普通選挙を通じた政権交代、陪審制をすべて実現した。

 その後に近衛およびその革新幕僚たちの度重なる政党破壊工作によって全政党は解散に追い込まれ、政党政治は破壊されてしまった。しかし第七十六回帝国議会において、政党を喪失した衆議院代議士と貴族院議員たちが逆襲に転じ、「大政翼賛会違憲論」を掲げて近衛内閣を追及し、大政翼賛会を行政の補助組織に転落させ、我が国の左翼全体主義化を阻止し、立憲議会制デモクラシーを防衛したのである。

 以上の事実を熟知する元アメリカ駐日大使のジョセフ・グルーがポツダム宣言の起草作業に加わっていたからこそ、アメリカ・イギリス・中華民国は、我が国の政府に対して「デモクラシーを導入すべし」ではなく「日本国国民の間に於けるデモクラシー的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去すべし」と要求したのである。 

 繰り返し強調するが、復活とは以前存在していたものが再び甦ることであり、強化とは弱いながらも存在していたものを一段と強くすることであって、全然前に存在しなかったものに対して、復活とか強化とかいうことは有り得ない。従ってポツダム宣言第10条2項の「日本国国民の間に於けるデモクラシー的傾向」とは明らかに帝国憲法下における立憲議会制デモクラシーである。

 そして日本国政府が帝国憲法の改正を俟つことなく日本国国民の間に於けるデモクラシー的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去することは極めて容易であり(現代日本に甦る美濃部達吉の遺言−立憲議院内閣制の理想型参照)、ポツダム宣言の履行に帝国憲法の改正は全く必要なかった。このことは、幣原内閣の憲法調査会において美濃部達吉と宮澤俊義が説明していた通りである。

 従ってポツダム宣言は明示的にも黙示的にも日本国に帝国憲法の改正を要求しておらず、当然のことながら宣言を受諾した日本国政府に憲法改正を行う義務を課さず、ポツダム宣言を発表し、日本国代表と同じく宣言に調印した連合国代表およびその執行機関である連合軍(占領軍)司令部に、日本政府へ帝国憲法の改正を要求する権利も、連合軍自ら軍事力を用い帝国憲法の改正を強行する権利も与えなかった。

 だからジョセフ・グルーはポツダム宣言について「新しく憲法を制定するというような根本的、全面的な憲法改正は考えられていなかった」と述べたのである。

 また駐日アメリカ大使として来任したライシャワーは、「終戦後始めて日本がデモクラシーを採用したものである」という日本人の説を「とんでもない誤解だ」といって否定したという。

 葦津珍彦氏の話によると、かつてある座談会で、日本の学者が「デモクラシーは日本では精々十五、六年来のものだから仲々うまくかない」と述べたところ、ライシャワーが「とんでもない、デモクラシーは日本では百年来のものですよ」と反論したという。

 日本の近現代史に精通する知日派のアメリカ人にとって、昭和天皇がGHQの了承を得て「新日本建設の詔書」に加えられた明治天皇の五箇条の御誓文が近代日本のデモクラシーの起源であった(近代日本民主主義の起源「五箇条の御誓文」と帝国憲法下の帝国議会の権限)。

 仮に芦部信喜や小林直樹にならい、日本国憲法を無理やり正当化するために、ポツダム宣言第10条2項の「democratic tendencies」を「国民主権」と悪訳してみると、ポツダム宣言第10条2項は「日本国政府は、日本国国民の間に於ける国民主権の復活強化に対する一切の障礙を除去すべし」となる。

 そうするとポツダム宣言受諾以前の我が日本国において、帝国憲法の下で「国民主権」なるものが隆盛したのち衰退したということになり、democratic tendencies(国民主権)とは、エドマンドバークとアレクサンダー・ハミルトンの叡智を受け継ぐ帝国憲法が断固として否定するフランス暴力革命のイデオロギーの「国民主権」ではなく、帝国憲法下で帝国憲法と矛盾することなく隆盛し得る「何か」となる。

 「何か」とは何なのか、「陪審制」(1923年法律第五十号、1928年から1943年まで施行、戦局悪化により一時中断したまま二十一世紀に至る)のことになるのか、それ以外の制度のことなのか、筆者には見当がつかない。しかし、いずれにせよ、ポツダム宣言第10条の履行に帝国憲法の改正は全く必要なかったことになる。従ってポツダム宣言は明示的にも黙示的にも日本国に帝国憲法の改正を要求していなかったことになり、日本国憲法はその制定過程だけでなくその内容においても、帝国憲法だけでなくポツダム宣言第10条にも違反していたことになる。

 だから芦部信喜や小林直樹は、ポツダム宣言に依拠して帝国憲法違反にして国際法違反の日本国憲法を正当化しながら、宣言第10条2項の「復活」の意味を無視し、日本国民から表現の自由と知る権利を剥奪したGHQ検閲下の日本国憲法の制定過程それ自体が宣言第10条3項「言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は、確立せらるべし」および「日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立せらるるに於ては、連合国の占領軍は、直に日本国より撤収せらるべし」に違反していたことを隠蔽する。

 さらにこの二人の東大法学部教授は、憲法学の初心者をして「ポツダム宣言の履行には帝国憲法の全面的廃棄が必要不可欠であった」と錯覚させるために、「明治憲法はポツダム宣言とは原理的に相容れない非民主的・前近代的憲法」であり、「基本的人権と文明社会に発達した法秩序の観念そのものを否定した憲法」という言語道断の誹謗中傷を帝国憲法に浴びせたのである。

 この誹謗中傷は、谷沢永一に「悪魔の思想」と命名された反日左翼勢力の聖典「コミンテルン32年テーゼ」に合致しているが故に、スターリンの反日史観であるこのテーゼと同じく芦部信喜の小林直樹の憲法学は虚偽の体系である。

 だから1963年10月、小森義峯が憲法学界の「憲法研究」において二人の誤謬を糾弾する「日本国憲法の正当性」と題する論文を発表し、芦部信喜と小林直樹に宣戦を布告したところ、この二人は「適当な機会に再反論したい」と応戦を表明しながら、一言半句も再反論できず、1999年ついに芦部信喜はあの世に逃げてしまったのである(正統憲法復元改正への道標9〜36頁)。

<日本国民を戦後民主主義洗脳狂育から覚醒させる名著>

韓国人を震え上がらせるための日本憲法学の密教−現憲法無効論憲法恢弘の法理(井上孚麿著)

こうして日本人は国を愛せなくなった・・・日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと

<おまけ、大日本帝國憲法暗黒史観を砕く選択問題>

・問題1 1890年11月29日(大日本帝國憲法の施行日)から1947年5月3日(日本国憲法の施行日)までの日本國で実現しなかった政策はどれか。次の中から該当するものを選びなさい。

1、普通選挙法の施行
2、陪審制の施行
3、大政翼賛会の一党独裁
4、婦人参政権の付与

 正解は3。ワイマール憲法は国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の一党独裁を許してしまったものの、大日本帝國憲法はソ連共産党を模倣した大政翼賛会の一党独裁を許さず、近衛新体制運動を推進していた朝日新聞社出身のソ連スパイ尾崎秀実ら近衛文麿の革新幕僚(昭和研究会に参集していた共産主義者)の無法な野望を粉砕した(詳細は近衛新体制を参照)。
 また婦人参政権は1945年12月17日に帝國憲法第三十五條にもとづく衆議院議員選挙法の改正により実現した

・問題2 伊藤博文、井上毅、金子堅太郎、伊東巳代治が大日本帝國憲法の起草のために参考にした外国の憲法はどれか。次の中から該当するものを選びなさい。

1、プロイセン憲法
2、ベルギー憲法
3、スウェーデン憲法
4、イギリス憲法
5、アメリカ憲法

 正解はこちらです。

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posted by 森羅万象の歴史家 at 22:00| 日本国憲法の正体 | 更新情報をチェックする