2015年08月28日

史上最悪の反日的日本人の松谷誠を復活させた吉田茂

 晩年の岸信介に大きな衝撃を与えた大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義の著者の三田村武夫が挙げるゾルゲ機関の謀略工作が成功した理由の一つは、政治家の無知であり、共産党関係の事件内容が秘密にされてきたことと関連して、政治家が殆ど思想事件に無知で無関心であり、自分の身辺間近まで、或いは自分の腹中に、その謀略の手が延びて来ても気付かなかったことであるという。

 政治家の無知と無関心ひいては有権者の無知と無関心は、病膏肓に入りて、もはや不治の病である。そしてこの病気が、今の政治家を日本国に安楽死をもたらすドクターキリコに変えているのかもしれない。

 平間洋一教授は、「第二次世界大戦と日独伊三国同盟−海軍とコミンテルンの視点から」に自衛隊の創設にまつわる衝撃的なエピソードを記している。

 しかし、(マルクスボーイ)の筆者は入学早々に「保安大学校も大学なのだから全学連に加盟させろ」と学校当局と団交したり、「大学にしては訓練が多すぎる。海上自衛官に銃はいらない」などと発言し、貸与される小銃の手入れもせず、パレードもさぼる問題児であった。

 この問題児を指導したのが「米の企図する日本政治の民主主義化よりも、ソ連流の人民政府組織の方が将来日本的政治への復帰の萌芽を残し得るならん」と敗戦革命を夢見て、戦後はソ連との提携を進言した参謀本部戦争指導班長の松谷誠陸将補だった。松谷は吉田茂が駐英大使の時の武官で、吉田の勧誘を受けて自衛隊に入隊し保安大学校の幹事になった。

 吉田茂は一九四五年九月に外務大臣に任命されると、「まな板の上の鯉」の譬えを引用し、「ジタバタすることは百害あって一利なく、諸君はよろしく隠忍自重し、よく占領軍当局に協力し、他日の国家再建の基礎づくりに邁進しなければならない」と訓示した。そして東京裁判では米国の開戦史観に同調し、外務省を庇い東京裁判史観を外務省の史観としてしまった(第二次世界大戦と日独伊三国同盟―海軍とコミンテルンの視点から331ページ)。


 松谷誠は彼自身の回顧録「大東亜戦争収拾の真相」(82ページ)でウソ偽りなく次のように告白している。

 七月一日と二日、第二十班では班長の私、種村中佐、橋本少佐の三名で、昭和二十年春を目的とする戦争指導に関する研究を実施した。其の要旨は次のようなことであった。

 「…斯かる帝国の企図不成功に終りたる場合においては最早一億玉砕あるのみ…」


 吉田茂は近衛上奏文を基本綱領として我が国を敗戦革命から救い出すために早期和平運動に参加し陸軍憲兵隊に検挙された。これが日本バドリオ事件である。

 これがいわば怪我の功名になって吉田茂は、敗戦後の宰相になり得たのに、事もあろうに、近衛上奏文のいう「国体と共産主義の両立論」と「一億玉砕」とを唱え敗戦革命を目論んだ軍部内革新運動の中心人物の松谷誠元陸軍大佐を自衛隊(正確には警察予備隊)に勧誘し、松谷は自衛隊の幹部を養成する保安学校の幹事になっていたのである!

 しかも後に松谷は極東ソ連軍に対する日本防衛の要であった陸上自衛隊北部方面総監(三代目、1957年8月〜1960年8月)を務めた。これは、戦後日本の笑えない喜劇どころか、笑うしかない悲劇ではないか!!吉田茂に対する所長の評価はジンバブエドル並みに暴落した。昭和史の証言―真崎甚三郎・人その思想の著者山口富永氏は、自衛隊の創設過程を危惧し、真崎甚三郎元陸軍大将に相談したところ、真崎は「一言ぐらい相談があってもいいのにね…」と吉田茂に不満を漏らしたという。  

 吉田茂とは、近衛文麿の韜晦工作と、軍部に責任を転嫁する外務省の歴史偽造と、マッカーサー占領軍憲法の永続と、元革新将校の復活に貢献した、それこそ役に立つ白痴ではないか!

 警察予備隊の発足から始まる自衛隊の創設時に革新将校を排除しなかった吉田茂の愚行は、戦後の戦史教育に悪影響を及ぼしており、元陸軍将校が執筆した防衛庁戦史室の戦史叢書大本営陸軍部の後半巻は、陸軍中央が尾崎秀実の供述した東亜新秩序−東アジア共産主義社会の実現を目論んでいたことを示す戦争指導資料を隠蔽している。

 とくに大本営陸軍部〈9〉は酷くて、「今後採るべき戦争指導の大綱に基く対外政略指導要領(案)昭和十九年八月八日、省部主務者案」に一言も言及しないばかりか、大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌昭和十九年九月十八日の条を引用しながら、その中から「更に日ソ支東亜共同宣言(案)を研究す」という部分を削除している。

 防衛庁戦史叢書大本営陸軍部<9>の執筆者である元陸軍省軍事課中佐の高崎正男は、戦後の日本においても、大本営機密日誌の著者である種村佐孝と同じく大本営発表を繰り返し、後世の国民を欺こうとしたのである

 これは残念ながら大成功を収め、サンフランシスコ講和条約の発効と同時に占領軍憲法の廃棄と帝国憲法の復元が実現していたら、参謀本部作戦課員になっていたであろうプロの戦史家である松村劭氏までも新・戦争学110〜111ページに次のような粗末なことを書いている。

 第一次世界大戦と第二次世界大戦の谷間では、人種差別は白人社会において当然のこととして認められていた。その黄色い猿が白人国家並みの態度で海洋覇権を求め始めたのだ。必然的に黄禍論が欧米で盛んになった。米国の戦争目的の本質はこれであって、日本という国家を抹殺することであった。「全面戦争」である。

 したがって、戦争末期における日本の戦争目的は「生存」に変わっていた。だから硫黄島、沖縄の会戦と神風特別攻撃隊の戦闘の目的は、軍事的合理性を超越していた。それは子孫に民族の闘魂を伝承し、「愛国精神」を伝えることであった。


 国民全滅を意味する一億玉砕という敗戦革命スローガンに象徴されるサイパン陥落後の戦争指導の目的が日本国の「生存」であるはずがないだろう。
 我が国の戦争目的は、尾崎秀実が獄中で告白した東亜新秩序−日ソ支三国共産同盟であり、それはアメリカの戦争指導と同等かそれ以上に残酷なもので、「立憲君主制議会制デモクラシーの大日本帝国を抹殺する」ことであった。

 1920年代の日本では自由主義デモクラシーが隆盛したが、代償として尊皇忠君愛国遵法精神といった日本らしい道徳倫理感が著しく衰退し、マルクス・レーニン教が大流行した。この時代にマルクス・レーニン教にかぶれた者の使命感と戦争欲は凄まじかった。戦後日本の保守派知識人の重鎮であった元東大総長の林健太郎は次のように告白している。

 しかし幸いなことに資本主義国家というものは社会主義に敵対するだけではなく、資本主義国家同士の間でも激しく対立する。だからその矛先をソビエトではなく他の資本主義国家に向けさせなければならない。これがスターリン、ゾルゲ、尾崎秀実らの考えであり、マルクス主義者の眇たる一分子であった私(林)もまたそれと同じ考えであった(昭和史と私108ページ)。

 林はコミンテルンにリクルートされた訳でもないのに、帝国主義諸国相互間の戦争を激発させなければらないという使命感に燃えていたのである。
 
 マルクス・レーニン教徒は、自発的に率先してソ連を愛し、共産主義が実現していない現在の社会と国家を憎悪するが故に、あらゆる手段を用いて、それらを破壊することに執念を燃やす凶悪な現状破壊主義者−国益を考慮することなく、ひたすら革命・革新・変革・改革・「国を変える」を叫ぶ者−となるのである。これが共産主義に憧憬する者の本質である。

 だからソ連は、「米国も戦後は社会主義的な国になりソ連と立場を同じくする」と話していたフランクリン・ルーズベルト大統領(彼の妻のエレノアもアメリカ共産党と親交していた共産主義者であった)および「私有財産が諸悪の根源であり財産と貧困の害悪を断ち切るには社会主義を実現するしかない」という信念を抱いていた近衛文麿首相の周辺に、巨大な諜報謀略網を張り巡らせることができたのである。

 当時の日米両国の防諜体制は、共産主義者の真赤に燃える情熱に対して全く無力であった。

 因みに林健太郎が日本共産党に幻滅し保守派に転向した理由の一つは、右翼(国体の衣を着けた共産主義者)として日本の大東亜戦争遂行を礼賛していた有名な講座派マルクス主義者の平野義太郎が獄中18年を誇る自称反戦平和主義者の徳田球一の推薦を受けて選挙に登場したことだった。平野は、史上最悪の反日的日本人の一人である松谷誠陸軍大佐の政治幕僚の一人であった

 吉田茂という文民政治家の愚行が、ボロボロと機密を漏洩する自衛隊のザルのごとき情報虚弱体質を生み、ひいては防諜に対する有権者の無関心を生んだのである。
 敗戦後の我が国は最初の国防再建策から重大なミスを犯した。それこそ我が国の文民統制(シビリアンコントロール)は最悪の初手を打ったのである。そしてこれが敗着になった。もう抱腹絶倒するしかない。

 今日の我が国の議会勢力が有権者に日本の過去を真剣に反省させたいのなら、田母神俊雄氏の戦史論文ではなくて、防衛庁戦史室戦史叢書大本営陸軍部の改竄隠蔽箇所を糾弾すべきであるが、歴史学者はそれに気付かないし、政治家はそれを行えない。

 それが為されると、大東亜戦争後半の陸軍中枢の正体が一般国民に知れ渡り、そこから過去の誤ちを繰り返さないために防諜法と反共法の復活強化を求める国民運動が勃興して、売国稼業に勤しむ与野党の政治家の大半と、朝日新聞社、日教組、反日左翼マスコミ、可笑しな保革双方の歴史学者が壊滅するからである。

<参考史料>

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

昭和十九年七月一日 土曜
帝国トシテハ甚タ困難ナガラ政略攻勢ニ依リ戦争ノ決ヲ求メサルヲ得ス 此ノ際ノ条件ハ唯国体護持アルノミ
而シテ政略攻勢ノ対象ハ先ツ「ソ」ニ指向スルヲ可トス
斯カル帝国ノ企図不成功ニ終リタル場合ニ於テハ最早一億玉砕アルノミ、帝国トシテハ飽迄モ冷静ナル見透ニ依リ皇統連綿タル三千年ノ歴史ヲ保存シ、後図ヲ策スヘキナリ

昭和十九年九月十八日 月曜
本日「ソ」ヨリ我カ特使ノ派遣ヲ拒絶シ来レリ、「ソ」ノ真ノ腹ハ何処ニアリヤ不明ナルモ国家ノ為遺憾千万ナリ、帝国ハ飽迄執拗ニ対「ソ」交渉ヲ継続スルヲ要シ、夜別館ニ於テ、班長、加藤中佐、橋本ニテ今後ノ交渉要領一案ヲ研究セリ
更ニ日「ソ」支東亜共同宣言(案)ヲ研究ス

昭和二十年六月二十五日 月曜
沖縄終戦ニ関スル大本営発表アリ。襟ヲ正シテ自省自奮アルノミ、
右ニ伴フ明日行フヘキ総理談又ハ告諭ニ付内閣ニ於テ討議ノ結果告諭トシテ発表スルコトヽナレリ。
午後五時発小田原山荘ニ近衛公ヲ訪ル(種村)、途中国府津ニテ岡村憲兵ト奇遇スルアリ秘密行ス。政談ヲ一切抜キニシテ専ラ軍事情勢ニツキ公ニ本土決戦必勝ノ信念ヲ与フル如ク力説スルコト三時間公ヲシテ電燈ヲトリテ門前ニ予ヲ送ラシムルニ至ル。
惓モ死児ノ齢ヲ数フルカ如シト前提シテ公三国同盟ノ締結及独「ソ」開戦当時、大東亜戦争前等ヲ思ヒ感慨深ク語ル
食料問題ハ大政治問題化スヘシトテ陸戦隊化シタル海軍ノ整備ヲ論ス。
再会ヲ約シテ去ル、一重臣ヲシテ戦意ニ燃エシメタリトセハ千万人ト雖モ我往カン。
午後十一時三十分徒歩三十分ニシテ湯本吉池旅館ニ永井少将ヲ訪レ同宿御見舞ス。
箱根街道ハ三百年前ノ昔ノ如ク深夜人ナシ。感激深シ。
公曰ク「此ノ次ハ陸軍ノ時代ナリ宜シク御奮闘ヲ祈ル」ト


<関連ページ>

・筆者の大勝利(笑)国民のための大東亜戦争正統抄史1928―56を補強する英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRA

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posted by 森羅万象の歴史家 at 12:00| 政治の全般 | 更新情報をチェックする