2015年12月26日

部落差別の起源と真因


<池田信夫の間違い!被差別部落中世起源説>

 池田信夫は、週刊朝日と佐野真一を非難する記事の中で、「被差別部落の起源は、屠殺などの仕事が江戸時代の身分制度で非人とされたことによる職業差別で、世界の少数民族問題とは違って遺伝的な差別ではない」と指摘している。しかしこれは間違いである。被差別部落の江戸時代起源説(近世政治起源説)は、戦後民主主義洗脳狂育が日本国民に刷り込んでいる真っ赤な虚偽である。

 被差別部落の研究者である斉藤洋一氏は、次のように述べている。

 勉強を始めたころは、私も通説にしたがって、被差別部落は戦国時代末期から江戸時代初期にかけて政治権力によってつくられたものだと考えていた。そして、それを小文に書いたこともあった。しかし近世政治起源説になんとなく疑問を抱いていたのも事実だった。

 その疑問を決定的にしたのが、一九九〇年四月に発表された、中世史家横井清氏の「誕生から葬送へ」だった。そのなかで横井氏は、次のように述べている。

 私は、江戸時代に被差別部落が成立した、などという考え方は、少なくとも現時点ではもう捨てております。被差別部落の成立は、それ以前に遡るかたちで捉えられるべきである。実例も、一、二にとどまらない。

 現代にまでつながる被差別部落の歴史、というような観点で見ていく場合、量的には江戸時代を重視するという考え方は不可欠でありますが、被差別部落というものが歴史的に持たされてきている様々な特質・条件、そういったものを重視していく限り、量ではなくて、質の問題である。その点に固執するかぎり、中世に遡る、というふうに考えているわけです(身分差別社会の真実191ページ)。


 そして斉藤洋一氏は身分差別社会の真実(1995年初版発行/講談社現代新書)で、最近の研究成果として、被差別民の役割と生業の起源が中世にあったことを例証している。

 しかし被差別部落の中世起源説は、大日本帝國の歴史学会を代表する歴史家の一人であった瀧川政次郎が昭和3年(1928年)に出版した日本法制史(1985年講談社学術文庫より復刊)に出ているのだ。

 雑色の名残を汲む賤民は、穢多、非人の名をもって総称せられた各種の賤民である。エタなる名称の起源については種々の説があるが、『和名抄』に見える恵止利(屠者)なる語の転訛であろうという説が一番正しい。恵止利は餌取りであって、鷹に食わす餌(獣肉)を取ることを業とした鷹戸なる雑戸を呼んだ名である。

 穢多なる漢字は、このエタなる語の巧妙なる当字であって、その最も古き出典として従来知られているものは、『師守記』貞治元年(一三六二)の条であるが、鎌倉中期になれる『塵袋』には、既にこの語が見えている。

 非人なる名称の起源についても諸説あるが、『延喜式』には穢多非人の並称に対して濫僧屠者(らんそうえとり)なる並称があるから、非人はすなわち僧侶の異称より出た言葉であろう。

 穢多と非人とは、江戸時代には厳格に区別せれらたが、この時代の穢多・非人とはほとんど同義に用いられ、両者の間に判然たる区別がなかった(日本法制史上369ページ第四篇融合法時代前期~鎌倉開府から応仁の乱まで)。


 鎌倉時代の百科事典「塵袋」(著者未詳。1264~1288に成立)には次のような記述がある。

 根本は餌取と云ふべきか。餌と云ふはしゝむら(肉)を、鷹等の餌を云ふなるべし。其をとる物と云ふ也。えとりをはやくいひて、いひゆがめて、エタ(穢多)と云へり。たととは通音也、エトをエタと云ふなり。エトリを略せる也。子細しらぬものはラウソウ(濫僧)とも云ふ。乞食等の沙門の形なれども、其の行儀、僧にもあらぬを濫僧と名けて、施行ひかるゝをば濫僧供と云ふ。其れを非人・カタヒ・エタなど、人まじろひもせぬ、おなじさまのものなれば、まぎらかして非人の名をエタにつけたる也。ラムソウと云ふべきをラウソウと云ふ。弥(いよいよ)しどけなし。天竺に旃陀羅と云ふは屠者也。いき物を殺て売る、エタ体の悪人也(東洋文庫-塵袋<1>288~289頁)。

 非人は非人法師ともいい、要するに、エタ非人の起源は、濫僧非人すなわち正式の得度を経ず戒律を守らない僧形の浮浪者であり、乞食坊主である。

 文部省教科書調査官の嵐義人の解説によると、瀧川政次郎の日本法制史は、他の日本法制史の概説書の範となり、読み物として、また内容の程度において、瀧川の著書を凌駕するものは殆ど無いという。最近の被差別部落の研究はそのことを証明したのである。

<関西に偏在する部落差別の真因-日本的分断統治の後遺症か>

 濫僧非人が律令制度崩壊後の新たな賤民層を形成した時代は、日本列島が温暖化し、西日本では旱魃と飢饉が頻発した。とくに方丈記が伝える養和の飢饉(1181年)は凄まじく、京都を中心とする畿内に大量の餓死者と浮浪者が溢れ出た。

 この浮浪者が濫僧非人-正式の得度を経ず戒律を守らない僧形の浮浪者つまり乞食坊主となり、富裕者から金銭や米穀を恵んでもらうために、様々な芸・能・技・術・役を身に付けていったのだろう。

 瀧川政次郎博士は融合法時代前期(鎌倉開府から応仁の乱まで)の非人を次のように解説している。

 この時代の穢多・非人はその職業、住居などに従って、種々に呼ばれた。今その主なものを挙ぐれば、エタ、エッタ、河原者、皮太(皮多)、長吏、番太、院内、青屋、ササラ、茶筅、散所、シュク(夙)、非人、唱門師(声門)、ホイト、鉦打、鉢叩、鉢屋(ハチ、ブチ)、座頭、猿飼(猿曳き)、白山相人、犬神人、サンカ(山窩)、クグツ(傀儡子)などであって、河原者は河原に集落せるところより起った名称であり、皮太は皮革の製造を業とせるところより起った名称であり、院内は寺院の院内に住して汚物の掃除その他を業とせるところより起った名称である。

 また青屋は染物を業とし、ササラ、茶筅は、筒、茶筅、笊などの竹器を製作する賤民であって、前者は緋染、藍染、衣染、大狛染人等の雑戸の子孫であり、後者は爪工の子孫であろう。

 サンジョの語源についても諸説あるが、サンジョは算者、算所の意であって、算木を取って卜筮、祈祷を行う原始呪術者の群れであるという柳田国男氏の説が有力である。
 
 シュクについても学者の説は分かれているが、私はやはり夙は陵戸、陵守戸の略なる守戸の転訛であるという本居内遠以来の旧説が正しいように思う。

 唱門師は仏教化せる原始呪術者の一群に与えられた名称であって鉢叩き、鉦打等は、広い意味の唱門師の一種である。

 サンカの語源についても、また異説が多いが、サンカは坂の者の意であろうという喜田貞吉博士の説は最も斬新なるものである。

 ホイト、座頭、猿飼、傀儡子者は、「ほかいごと(寿詞)」を述べ、また卜占、遊芸を行って、金穀を受け歩いた賤民であって、唱門師とともに上代における遊部の後身をなすものである。

 しかしてこれらの人民は、品下がれる人民として一般良民から賤視せられ、婚姻、同火はもちろん、一定の住所に住むことさえ許されなかった。柳田氏は彼らの中の皮革業者のみが村落の外れ、河原の湿地、山林の中などに定住することを許されたのは、戦国時代に皮革の需要が高まったために、領主がこれを招致した故であろうといっておられる(日本法制史上369~370ページ)。


 被差別部落の研究者である斉藤洋一氏は、身分差別社会の真実の中で、部落差別の原因をケガレとキヨメに求めている。つまり非人の生業がケガレをキヨメるものであったから、ケガレを嫌悪する観念が日本人の間に拡大するにつれて、ケガレに畏れ慄きケガレを忌み嫌う諸々の人々が非人を差別するようになったのだというのである。

 しかし斉藤氏の探究は失敗している。非人の生業には、ケガレ・キヨメとは結びつかないものや農民の生業と重複するもの-履物や竹細工や灯心の製作、医薬品や砥石の切り出しと販売、猿廻しや芝居の上演等が含まれていたからである。

 筆者が思うに、砥石が刀のケガレをキヨメるから、砥石を切り出して販売していたエタ非人がケガレた存在として差別の対象になったというならば、刀の砥ぎ師のみならず人間の血でケガレた人斬り刀を腰にぶら下げていた武士も、酷い差別の対象になったはずではないか。

 しかも斉藤氏は身分差別社会の真実第四章~下級警察的役務・・番役も中世から・・村が招いた「えた」「ひにん」・・危険な役割を肩代わり・・牢番役・・処刑にかかわる仕事・・城や町の掃除~で部落差別の真因らしきものに触れているのだから、斉藤氏の失敗は滑稽である。

 「えた」身分などの人々が藩から、町や村の見回りや「犯罪人」の捜索・逮捕といった、いわば下級警察的役務に従事させられていたことは、すでによく知られている。

 たとえば福岡藩は、慶長十七年(一六一一)に、「かたわ」身分の人々に博多の松原(松林)の番を命じ、「松の皮を剥ぎ候者」を捕らえたら、褒美として米一石をつかわすとしている。これについて松下志朗氏は「当然そこには農民や町人と被差別部落民との間に反目を生じせしめることとなり、それはまた領主権力にとって都合のよい分断統治政策となったと考えられる」と指摘している(中略)。

 こうした下級警察的役務の矛盾が明確な形で表出するのが、百姓一揆の鎮圧だと思われる。なぜなら農民などが一揆を起こした時に、しばしば被差別民がその鎮圧に動員されたからである。

 これによって平人と被差別民とのあいだに大きな対立がつくられたといえよう。またこれに加えて被差別民が、捕らえた百姓一揆の指導者などを収監した牢の番をさせられたり、その処刑にかかわる役に従事させれたことによって、両者の対立はますます決定的なものになった。この意味においては、平人と被差別民とは分断され、対立するように仕組まれていたといえよう。

 しかし、被差別民は、このように権力から下級警察的役務を課される以前から、こうした番役にたずさわっていたとみられる(身分差別社会の真実136~138ページ)。


 江戸時代のエタ非人は、危険な下級警察的役務を負う代償として金銭や米穀といった報酬を得ていたのである。しかもそれは一種の既得権益としてエタ非人が中世の時代より相続してきた役務だという。

 分断統治は、イギリスが植民地で用いた政策であり、分断統治の後遺症は現在の世界でも深刻である。植民地がイギリスより独立して新興国となっても、イギリスにより下級警察的役務を負わされた少数の民族ないし宗派と、それ以外の民族宗派との対立抗争は消えず、両者は果てしなく憎しみ合い、殺し合うのである。

 斉藤洋一氏や松下志朗氏が指摘するように、エタ非人の下級警察的役務が結果的に分断統治政策となったのであれば、明治四年(1871年)の解放令発布直後に西日本各地に発生した解放令反対一揆(エタ非人解放令に反対する農民が被差別部落を襲撃した事件)と、それ以降の部落差別は、江戸時代における分断統治の後遺症であり、江戸時代のエタ非人に対する差別は、中世における分断統治の後遺症であろう。

 したがって中世において、なぜ非人が警備、巡邏、探偵、追捕、押送、牢獄、徴収といった下級警察的役務-それこそ民衆の怨恨を被り易い汚れ役-を背負うことになったのか、その理由が部落差別の真の原因を突き止める鍵であろう。

<寺社勢力と非人の関係>

 非人はもともと仏教用語であるという。

 仏はこの経を説き已って結跏趺座し、無量義処三昧に入りて、身心動じたまわざりき。この時、天は曼荼羅華・摩訶曼荼羅華・曼殊沙華を雨して仏の上及び諸の大衆に散じ、普く仏の世界は六種に震動す。

 その時、会の中の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷と天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅迦との人・非人と及び諸の小王・転輪聖王との、この諸の大衆は未曾有なることを得て、歓喜し合掌して一心に仏を観たてまつる(法華経序品)。


 法華経に登場する「人・非人」について、坂本幸男氏は次のように解説している。

 人とは比丘乃至優婆夷の四衆を指し、非人とは天乃至摩睺羅迦の八部衆を指す。但し「人非人」と一語に読んで、「天・竜の八部衆の総称にして、本来は人に非ざるも、変じて人の形となり、来たりて説法を聴くが故に人非人という」との解釈もあるが、恐らく誤りであろう(岩波文庫法華経上328ページ)。

 江戸時代、浄土真宗以外の仏教各宗派の僧侶は、諸々の身分に属する檀家に説法する立場にありながら、死亡したエタ非人に、人の形をした人に非ざるものを意味する「玄田(畜)」「似男」「似女」といった戒名を与え、エタ非人を徹底的に蔑視し差別していた。

 部落差別の研究者である斉藤洋一氏は身分差別社会の真実(109~110ページ)で、仏教に対して次のような疑問を呈している。

 仏教者は人を「救う」ことを本務としているのではないかと私は思っているが、その仏教者がこうした、いわば死者を冒涜する行為を行っていたのである。なお、死者に対してさえこうした仕打ちをしていたのだから、生者に対する接し方がどうであったかということも、およそ察しがつくが、上野国丸山村大円寺(浄土宗)住職が、文政七年(1824)八月に本山へ提出した上申書から、その一端を知ることができる(中略)。

 仏教者もまた深く差別観にとらわれていたことをみることができる。なぜこういうことになってしまったのか、仏教思想にまでさかのぼってとらえなおす必要があろう。


 斉藤氏は仏教を誤解している。仏教は人を無差別に救済する教えではなく、ある特定の人々を徹底的に呪詛する教義を持つ

法華経譬喩品

 余の巧妙な手段は常にこの世に確立されている仏の指導方法である。それを捨てて、渋面をして乗物を捨て去った人の、この世における悲惨な報いを汝は聴け。

 余の在世中であれ、あるいは入滅した後であれ、このような経典を捨て去って、あるいは僧たちに苛酷な態度をした人々の受ける報いを汝は聴け。

 愚かな輩は人間界で死んだのち堕ちて、幾劫(想像も計算も超越した極めて長い期間)かを満了するあいだ、阿鼻地獄に住む者となり、その後さらに幾小劫のあいだ、かれらはそこで堕落を続けるのだ。

 地獄界で死んだ後、かれらはさらに畜生界にさまよい、かれらは痩せこけた犬や豺(やまいぬ)となって、他の人々のなぶりものとなろう。

 余の勝れた「さとり」を嫌う輩は、そこで色が黒くなり、斑色となり、皮膚に腫瘍が生じ、また疥癬となる。かれらは頭髪が抜け落ち、さらに痩せ衰えよう。

 かれらは人間たちの間で常に嫌厭され、土塊を投げつけられて悲鳴をあげ、そこここで棒で嚇され、飢渇に悩まされ、四肢はやつれはてるのだ。

 さらに、かれらは駱駝あるいは驢馬となり、荷物を運んで、鞭や棒で叩かれる。

 仏の指導を捨てる愚かな連中は、食物の思いに悩まされよう。

 さらに、また愚かな輩は片眼で跛(あしなえ)の醜い山犬となり、村の子どもらからは土塊を投げつけられて、いじめられよう。

 愚かな輩はさらに生まれ変わって、流転に流転を重ね、愚かでのろまな五十ヨージャナの長身の動物となろう。

 かれらは足がなくなって匐いまわり、幾千万の多数の生物に食われよう。このような経典を捨てる輩は堪えがたい苦しみを受けよう。

 また、余のこの経典を信じない輩は、人間の姿を得たときも、不良、廃疾となり、佝僂(せむし)で、片眼で、暗愚で卑賤な者となろう。

 仏の「さとり」を信じない輩は、口より悪臭を放って、この世の嫌われ者となり、かれらの身体にはヤクシャや悪霊が入りこもう。

 かれらは貧乏となり、痩せ衰えて、いつも他人の使用人となってこきつかわれよう。かれらは数々の苦痛を受け、庇護を受けることなく、世の中を流浪しよう。

 かれらがこの世で誰かに使われる身となっても、その人はかれらに何も与えようとはしない。

 また、たとえ施しを受けても、かれらは直ちにそれを失うであろう。悪行の果報は実にこのようにあるのだ。

 また、熟練した人々のよく調合した薬がかれらに与えられても、かれらの病気はその薬のためにかえって進み、その病気は決して癒えることはない。

 かれらは他の人々から盗まれ、また騒動や乱闘に巻きこまれ、争いが起こされる。

 また、他の人々に財産を奪われて、罪の報いがその上に落ちかかる。

 彼は地上に教えを垂れる王者の仏を決して見ることはなく、仏としての余の指導を捨てて、教えを聴きえないところに住む。

 愚かな彼は教えを聴くこともなく、唖者となり、また知覚のない者となろう。このような「さとり」を捨てて、彼は決して心の平静を得ることはない。

 ガンジス河の砂の数のように数多くの幾千万億劫のあいだ、彼は愚鈍な者となり不具者となる。これがこの経典を捨てた罪の果報である。

 地獄が彼の遊園地であり、環境の悪い土地(地獄)が住居となり、彼はこの世では常に驢馬や豚や山犬や地面を嗅ぎまわる犬の間に暮らす。

 人間の姿を得ても、彼は盲人となり、聾唖者となり、白痴者となろう。また他人にこき使われて、常に貧乏である。そのとき、これらの不幸が彼の装飾品である。また種々の病気が彼の属服となり、身体には幾千万億の傷が生じよう。

 また、湿疹や疥癬にかかり、さらに白癬や白癜や癩病を患うて、悪臭を放つであろう。個我に関して異端の見解を堅持し、また彼の憤怒の力は増大する。

 婬欲は激しく、彼は常に畜生の陰門を娯しむ。

 シャーリプトラよ、もし余がいま余の経典を捨て去る者の罪を数え上げるとすれば、たとい一劫を満了するまで数えたとしても、その終りに達することはできない。


 濫僧非人(正式の得度を経ず、仏教の戒律を守らならい僧形の浮浪者で、乞食坊主)が律令制度崩壊後の新たな賤民層を形成した時代は、日本の仏教界が著しく腐敗堕落した時代であった。その腐敗堕落の頂点に君臨した比叡山延暦寺の横暴は、朝廷の手に負えず、幕府は次の法律を公布した。

「宣旨の事 寛喜三年(註、1231年)六月九日 近ごろ山僧・神人等、事の面々の沙汰に寄せ(各自勝手な訴訟にかこつけて)、所々に於て□(不明・おそらく神輿か威猛)を振るの風聞あり。その旨趣(根拠)由緒あらば、上奏を経、理非に遵うべし。

 しかるに或は寄付の神領と称して甲乙の荘園を押妨し、或は供用の物と号して遠近の屋舎を煩わし、ほとんど恥辱を施す者あり。また佗イ祭(たてい、経済的損害を与える)に及ぶ輩あり。

 世のため人のため、禁ぜざるべからず。自今以後、停止せしむべし。もし鳳銜(勅令)に背き、なお狼藉を致さば、たとい神人宮仕たりといえども、いかでか皇憲朝章(法の罪科)を遁れんや。その職を解かしめ、有司ならびに武家に仰せて、すみやかに糾さば即ち禍なし。

 おおよそ在家(民家)に於て負累の物を乱責(収奪)せば、これを緑林(盗人)に処し、行路に於て運上物を点定(横領)せば、これを白波(盗人)に準じ、早くその愆(あやまり)に任せて、その科に行うべしてえり。本主(張本人)および語らいを得るの人を断罪せよ。よろしく本社・本寺に下知し、その厳制を守り、失墜なかるべし。」


 1227年に比叡山延暦寺の命令を受けた祇園社の犬神人は、浄土宗の開祖である法然の墓所を破却した。浄土宗は法華経を重視しないというが、浄土宗の僧侶と信徒が、祇園社の犬神人にどのような感情を抱いたか、想像するに難くない。

 犬神人(いぬじにん、いぬじんにん、つるめそう)は非人の一種で、中世から近世にかけて大社に従属した下級神官である。1352年頃の『祇園執行日記』に散見する犬神人の用務は、境内触穢物取捨清掃、祭礼の警護、社家および山門(比叡山延暦寺)の検断による住居破却の執行、地子(地代)などの譴責などである。

 祇園社の犬神人は有名であるが、1395年の『鶴岡事書日記』五月十日条に境内で馬血を取る者を犬神人をして取り締まらせる記事があり、諸社に存在したとみられる。

▽本願寺聖人伝絵(1343年)にみえる犬神人。これが犬神人を描いた最古の絵巻といわれる。


 
 検断とは、中世の日本においては警察・治安維持・刑事裁判に関わる行為・権限・職務を総称した語で、罪科と認定された行為について犯人の捜査と追捕(逮捕)、その後の取調と裁判、判決の執行までの一貫した過程を指す。元は、「検察」と「断獄」を合わせた語で、非違(不法行為)を検察してその不法を糾弾して断獄(罪を裁くこと)を行うことを意味している。

 筆者が推測するに、比叡山延暦寺をはじめ、神仏混淆時代の腐敗堕落した寺社勢力は、彼らが神仏の名において行っていた独善的、強圧的、詐欺的、暴力的な検断の執行役を濫僧非人に務めさせていたのではないだろうか。

 つまり中世において濫僧非人に、警備、巡邏、探偵、追捕、押送、牢獄、徴収といった下級警察的役務-それこそ諸宗派の僧侶の憎悪や民衆の怨恨を被り易い汚れ役-を背負わせていた者は、腐敗堕落した寺社勢力ではなかったか。

 しかもそれが織田信長によって比叡山延暦寺が1571年に滅ぼされるまで約400年のあいだ続いていたとしたら、その後遺症が江戸時代のエタ非人に対する過酷な差別となって現れたとしても不思議ではないだろう。

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 最後に部落差別の起源と真因を理解した方が身近にいる反日報道と反日教育の被害者にプレゼントして彼らから「真実を知り、WGIPを引き継いで日本人を狂わせている反日新聞の定期購読を止め新聞代を節約できた」と心から感謝されています
世界中で日本人に対する偏見と差別と迫害を助長している反日新聞社を崩壊させる大東亜戦争史

<日本国を防衛する食いしん坊バンザイ>

 我が国のソバ好きが一周年を迎えた対馬ふれあい産直便を利用してソバ通を唸らせるソバの原種に近い貴重な対州ソバを食べれば、対馬の地元経済は潤い、迷惑な韓国人観光客を排除できる。対州ソバの愛好者が韓国から国境の島の対馬を防衛します
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posted by 森羅万象の歴史家 at 18:00| 政治の全般 | 更新情報をチェックする