2016年08月08日

小林よしのりが隠蔽する神皇正統記の論理

 小林よしのりは、「さらに田中先生は、決定的な指摘をされた、『親房の議論に“男系”という用語はありません!』」と言う。しかし北畠親房の神皇正統記には「一種姓のなかで」という用語がある。

<神皇正統記上 わが国と他国の相違>

 中国はとりわけ文字・書物を貴ぶ国であるが、世界の創生についてはたしかではない。儒書には伏犠氏という王より以前のことは触れていない。

 ただし異端の書(道家の説など)に、混沌未分の形、天地人の初めを説いているのは、わが国の神代の起源を説くのによく似ている。

 あるいはまた、盤古という王があって、その日は日月となり、毛髪は草木となったという説もなる。この説によれば、盤古王ののち、天皇・地皇・人皇・五竜等の諸氏があいついで王となり、その間、数万年を経たということである。

 わが国の初めが天神(あまつかみ)の種をうけて世界を建立していった点は、天竺の説に多少似たところもあるようだ。しかしわが国は天祖以来皇位の継承に乱れはなく皇統が一筋であって、この点は天竺とちがうところである。

 天竺の初めの民主王は民衆に擁立され、それ以後、その子孫は王位を相続したが、時代が下ると、その血筋をうけた種姓の多くは滅ぼされて、力さえあれば下劣の血筋のものも国主となり、ついには五天竺を統轄するものまであらわれた。

 中国はとりわけ乱逆で秩序のない国である。昔、世の中がすなおで道が正しかった尭・舜の時代でも賢者をえらんで王位をつかせることがあったから、皇統が一筋に定まっているということはない。

 夏・殷・周以後、乱世となり、力をもって国を争うこととなったから、民衆の中から出て王位についた者もあるし、辺境の戎狄(じゅうてき)から身をおこして国を奪った者もある。

 あるいは代々王臣の身でありながらその君主を圧倒してついに王位を譲り受けた者もある。伏犠氏ののち、中国では天子の氏姓・王朝の交代は三十六に及んでいるから、乱れのはげしさは言語道断というほかない。

 この点、ただわが国のみは天地開闢の初め以来今日にいたるまで、天照大神の神意を受けて皇位の継承は少しも乱れがない。

 時として一種姓のなかで傍流に伝えられることがあっても、またおのずから本流にもどって連綿とうち続いている。これはすべて天照大神の天壌無窮の神勅が変わることなく生きているからであり、他の国の場合とまったく異なるところである。

 そもそもわが神の道は神秘であって、測り知りがたいが、もし国家創生の根本を知らなければ、それが乱れのもととなるだろう。その過ちを救うために、神の道のことを以下、いささかしるすのである。

 しかしここでは、神代からこのかた正理によって皇統が継承されているいわれを述べようと思うので、世間で誰もが知っているようなことは省いている。そこで、この書を神皇の正統記と名づけようと思うのである(日本の名著<9>慈円・北畠親房1983年版345ページ)。


 日本の皇室を侮辱する朝鮮人の精神を記録した金仁謙の日東壮遊歌(1764年1月22日の条)に以下の文がある。

 北京を見たという訳官が 一向に加わっているが かの中原(註、中国)の壮麗さも この地には及ばないという この良き世界も 海の向こうより渡ってきた穢れた愚かな血を持つ 獣のような人間が周の平王のときにこの地に入り 今日まで二千年の間 世の興亡と関わりなく ひとつの姓を伝えきて 人民も次第に増え このように富み栄えているが 知らぬは天ばかり 嘆くべし恨むべし

 「姓」は男系(父系)血縁集団の同一性を示す記号であるが、その記号によって示される男系血縁集団の同一性そのものを意味する場合もあるようだ。もっとも皇室の姓無し(ゼロ)も一種の姓−男系(父系)血縁集団の同一性を示す記号と言えないことも無い。

 神皇正統記を蔵書している方は既に御承知のことだが、北畠親房のいう「時として一種姓のなかで傍流に伝えられること」があった皇位の継承とは、以下の三代を指している。

 武烈天皇の崩御後、男大迹王が第26代の皇位を継承し、継体天皇となったこと。

 称徳天皇の崩御後、白壁王が第49代の皇位の継承し、光仁天皇となったこと。

 陽成天皇の廃位後、時康親王が第58代の皇位を継承し、光孝天皇となったこと。

 北畠親房は、

 「このように傍流の方が皇位を継いだのはこれまでに三代ある。これは群臣が探し出して皇位につけたのであるが、もともと人臣の勝手な考え方によったのではなく、神慮にもとづくものである」(日本の名著<9>慈円・北畠親房1983年版404ページ)

と述べている。

 この三代の傍流継承はいずれも男系の範囲内における皇位の継承であるから、親房のいう「時として一種姓のなかで傍流に伝えられることがあっても、またおのずから本流にもどって連綿とうち続いている」の「一種姓」とは「男系」を意味すると解釈する以外にない。

 北畠親房が、あくまで「皇位の男系継承の有り方」を述べ、しかも傍流(支系)継承を「神慮にもとづくもの」と全面肯定していることは、一目瞭然であろう。

 藤原基経が15歳の陽成天皇(第57代)を廃したとき(884年)、清和天皇(第56代)の多くの直系皇子(陽成天皇の弟にあたる親王)が存在した。それを以下に挙げる。

貞保親王(870-924) - 三品式部卿
貞辰親王(874-929)
貞数親王(875-916) - 兵部卿
貞平親王(-914)
貞固親王(868-930) - 四品弾正尹
貞純親王(873-916) - 源経基の父
貞頼親王(876-922)
貞真親王(876-932) - 三品常陸太守

 しかし摂政の藤原基経は、陽成天皇の大叔父にあたる54歳の時康親王(第54代仁明天皇の第三皇子)が他の親王たちよりずば抜けて高い徳と器量を備えているのを見て、清和天皇の直系の皇子を差し置き、第56代および第57代の天皇から見て傍流(支系)の時康親王を第58代の皇位に擁立した。

 北畠親房は、藤原基経を、皇位継承の原則を歪め或いは臣の関係を乱した逆臣として糾弾しない。それどころか基経を、前漢において昭帝の崩御後、昌邑王の劉賀(武帝の孫)を廃して宣帝(武帝の曾孫)を迎えた霍光になぞらえ、基経に以下の惜しみない称賛を送っているのである(日本の名著<9>慈円・北畠親房1983年版401〜402ページ)。

 「基経は天皇の外戚として政権を握っていたが、自分の一門の利害をすて、国家のために考えてこの天皇を廃したことはたいへんりっぱなことであった。

 このように基経がすぐれた人物であったので藤原氏の一門には多くの人材があったが、以後、摂政・関白の地位にはこの人の子孫だけがつくこととなった。また大臣・大将にのぼる者もみな基経の子孫であった。これも彼の積善の余慶というべきであろう。」

 高森明勅と小林よしのりは、新天皇論の読者が自分の目で神皇正統記の復刻版を読まない、あるいは読めないと、読者を侮り舐めきっているのだろうか?

 北畠親房には、皇位の傍流(支系)継承を否定できない理由があった。神皇正統記を読む者はそれを簡単に理解できる。

 およそ歴代天皇の事蹟を述べた書物は昔からそれぞれの家に伝わったものがたくさんある。だからここに書いたところもとりわけ珍しいことではない。ただ神代以来、皇位が正しく継承されてきたことの一端を述べたいためである。

 わが国は神国であるから、天照大神の御はからいによって続いてきた。もっともそのなかで、天皇が誤りを犯したために治世がながくない場合もあった。また最後には正路にかえりはしたが、一時は正統が沈淪してふるわないこともあった。

 これはみな天皇自身の不徳のいたすところであって、神仏の加護がむなしかったからではない。仏は衆生を一人残らず彼岸に導き救済しようとし、神も万民に正直の徳を得させようとするけれども、衆生のもって生まれた因果応報がさまざまで、万民の享けて生まれたものがそれぞれ違うから、決して一様にはゆかない。

 前世で十善を積み、その報いで今生で天子となったいっても、代々の天皇の業績・善悪はまたまちまちである。だから本を本として正にかえり、元を元として邪を捨ててこそ祖神にもかなうものである。

 神武天皇から景行天皇まで十二代は、子孫がそのまま位を継いだのであって何一つまぎらわしいことはない。日本武尊が皇位につかないうちに亡くなったので、弟の成務天皇に皇位が移ったが、次には日本武尊の子の仲哀天皇に伝えられた。仲哀天皇・応神天皇ののちには仁徳天皇に伝えられた。

 武烈天皇は悪王であったため継嗣が絶えてしまったので、応神天皇の五世の孫の継体天皇がえらばれて即位した。これはたいそう珍しい例である。けれど皇位継承の候補者が二人あるときは、いずれが正統でいずれが傍流かということも問題になるが、継体天皇の場合は、他にないため、群臣が皇胤を探し出したのであり、御本人も賢者で天意を享けており、また即位を願う人民の望みにもかなっていたのであるから、正統か傍流かなどということは問題にならない。

 その後、あいついで天智・天武の兄弟が立ち、大友皇子の乱(壬申の乱)の結果、天武天皇の子孫がながく皇位を受け継いだ。しかし、称徳女帝のとき継嗣者もなく、また当時、政治も乱れ(押勝・道鏡の事件など)、皇太子をきめることがないままにこの流れが絶えたので、光仁天皇が称徳天皇からは遠い続柄であったが、えらばれて即位した。

 これは継体天皇の場合とよく似ているが、天智天皇はもともと正統であり、その第一皇子の大友皇子はたまたま誤りを犯して位につかなかったが、その子の施基皇子には何の罪もない。だから、その子にあたる光仁天皇が位についたのは正理にかえったのだといえよう。

 今の光孝天皇も昭宣公(基経)がえらび出して位につけたのだが、これは陽成天皇が仁明天皇の皇太子の文徳天皇の嫡流だったのに、たいへんな悪王であり、他方、光孝天皇は仁明天皇の第二皇子だが、他の親王たちに比べ特に賢才であったから、これも天照大神の神意にかなっているといえるだろう。

 このように傍流の方が皇位を継いだのは、これまで三代ある。これは群臣が探し出して皇位につけたのではあるが、もともと人臣の勝手な考えによったのではなく、神慮にもとづくものである。この点、すでに前に書いてきた道理をよくよくわきまえるべきことだろう。

 光孝天皇より昔はすべて上古というべきで、のちの時代とは政治のやり方や世の中の姿がちがう。だから、何ごとについても先例を考えるときは、光孝天皇の仁和年間以降のことを例とする。

 しかし上古の時代でさえもこうした道理によって皇位が受け継がれてきているのである。まして末の世ともなれば、正理にかなった譲りでなくてはその位を保つことはとうていできないと心得るべきである。

 この天皇の御代から、摂政・関白となる家筋は、藤原氏のうちでも基経の流れにだけ固定して、他の流れがいかないようになった。ここにおいて、他の流れには行かないようになった。

 ここにおいて上天皇は光孝天皇の子孫が天照大神の正統ときまり、下摂政の地位は昭宣(基経)の家筋に固定し、天児屋根命(藤原氏の祖)が天照大神を補佐するという神代の誓いのとおり、これより今に至るまで天皇は三十九代、摂関は四十余人、連綿として四百七十余年におよんでいる(日本の名著9慈円・北畠親房402〜404ページ)。


 藤原基経が陽成天皇(第57代)が廃し、基経に選ばれた傍流の時康親王が皇位を継承して光孝天皇(第58代)となった後、光孝天皇とその嫡流の子孫が皇統の本流−天照大神の正統(皇位継承者)−となり、北畠親房の主君である後村上天皇(第97代)に至った。これが親房のいう「時として一種姓のなかで傍流に伝えられることがあっても、またおのずから本流にもどって連綿とうち続いている」に該当する史実である。

 だから北畠親房の神皇正統記は三代の傍流(支系)継承を「神慮にもとづくもの」と全面肯定するのである。

 旧宮家が皇族に復帰し、その中から昭和天皇の御子孫にあたる東久邇宮の男系男子が皇位を継承することになったら、持明院統(第89代後深草天皇の系統)嫡流から派生した伏見宮系統という皇統の傍流(支系)に属する東久邇宮ご出身の天皇とその嫡流の子孫が皇統の本流−天照大神の正統(皇位継承者)となり連綿と皇位を受け継いでいくことになり、それは「もともと人臣の勝手な考えによったのではなく、神慮にもとづくもの」である。これが神皇正統記の論理である。

 明治の皇室典範義解第七條解説は皇統の歴史を「一系の下は尊卑相承け、而して宗系尽きて支系に及び、近系尽きて遠系に及ぶ」と表現している。万世一系の皇統とは神武天皇に連なる男系支系から成る一帯の統合血脈なのである。

 小林よしのりは、後花園天皇(第102代)から昭和天皇(第124代)まで、持明院統(第89代後深草天皇の系統)崇光天皇(北朝第三代)五世孫以下の子孫にあたる伏見宮系男系男子に皇位継承権を与えた歴代天皇を論外の男系カルトに貶めるだけは飽き足らずに、神皇正統記すらも歪曲し、これを悪用して読者を騙すのである。

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