2014年02月27日

韓国人を震え上がらせるための日本憲法学の密教-現憲法無効論 憲法恢弘の法理(井上孚麿著)

 筆者は拙著「戦争の天才と謀略の天才の戦い 国民のための大東亜戦争正統抄史1928―56」の読者層を広げ、維新政党新風の知名度を上げるためにブログを始めたのですが、2007年の参院選では新風は議席獲得に遠く及ばず、ブログ(森羅万象の歴史家)の存在意義は半ば失われました。それから筆者はブログの方向性について思い悩み、2007年の12月からはブログ記事の更新を行う意欲を喪失し、ブログの休止を検討していました。

 しかし年末に筆者は偶然にも、平和憲法の正体をあばく井上憲法学の普及決定版「現憲法無効論-憲法恢弘の法理」(井上孚麿いのうえたかまろ著/日本教文社/1975)を購入することができ、すぐに読んでみたところ、大いに感動し、思わず感涙を溢しました。

 筆者は子供の時から、読者の魂を揺さぶる、余り知られていない名著に遭遇するのです。

 これは八百万の神々の叱咤激励だったのでしょうか。「現憲法無効論―憲法恢弘の法理」のおかげで、筆者は弊ブログの存在意義を改めて認識し、執筆意欲を回復しました。

現憲法無効論―憲法恢弘の法理(井上孚麿著/日本教文社1975)

第一篇 原理篇 「憲法」とはいかなるものか
第二篇 日本の憲法と擁護の伝統 「護憲」の本当の意味
第三篇 無効論 あらゆる「有効」説を論破する
第四篇 復原論 正統憲法復原こそ唯一の「護憲」
第五篇 むすび 「復原」が実現しなければ…

学問的真実に公権的解釈を一致させるべきこと

 すべて法の解釈には、公権的解釈と学問的解釈とがある。前者は政府・議会・裁判所等、公の機関の見方であり、後者はむしろ公の機関でないもの、主として学者の学問的解釈である。

 前者の政府筋の公権的解釈としては、大日本帝国は昭和二十一年十一月に有効に改正され、二十二年五月三日以後は、日本国憲法が有効に行われているとして、万事をそれで取り仕切っている。占領下隷属中の政府としては、それも一応もっとものことであったといわねばならない。

 しかしながら、学問的解釈としては二十一年のいわゆる改正を有効と解するのは、それこそ一握りの学者だけであって、このような解釈は学問的解釈として通用するものではない。

 およそ国の憲法の基本原則が憲法改正の限界を為すことは、成文の有る無しにかかわらず、いわば普遍妥当的理法というべきであって、例えば米国において元首選挙制をやめて世襲君主制にしたりすることは許されるべきではなく、またこれと反対に、英国において世襲君主制とか、議会制とか、国教制とかは、憲法改正の限界を為すものであり、これらに対して改正の手を伸ばすようなことがあったならば、当然無効と言わねばならないであろう。

 日本においても、改正限界説を否定する者は極く少数である。かの革命説の主張者などは、二十一年の憲法変改は改正限界を突破しているから、改正法としてならば無効という外はないとし、これを無効の淵から救って有効なことを証明しようとして、改正説に代えるに革命説を以てしたのである。

 そうすれば、日本国憲法は無効の法というより外ない。それで、謀略を事とする政治家からさえも、曲学阿世とか権力の侍女とかいわれる学者先生の多くは、既にしばしば繰り返し繰り返し説明した通り、いろいろと工夫して、日本国憲法を有効の法であると解釈して、とにかく現体制の迎合しようとする解釈がいろいろと出て来ているけれども、それらは一つも真実のものではなく、二十一年の改正といわれるものは無効であり、従って日本国憲法も、無効の存在に過ぎないことは、すでに繰り返し繰り返し吟味して来た通りであって、今は疑うことのできないものである。

 この学問的真実に公権的解釈を一致させるのでなければ、日本は将来とも憲法が行われる国とはなれないことは明白である。

 二十一年の憲法変改をこのままに放置しておいたのでは、無効説以外のどの解釈に従うにせよ、これからさきはどんな憲法違反をし、非立憲的なことをしても、それを「違法」とか非立憲的とかは言えないことになり、将来は日本では自由も平和も独立も法の支配も、なくなるに決まっている。それだから一刻も早く、本来の正しい姿に返さねばならない。

 本来の正しい姿といえば、徹頭徹尾「無効・復原」の一本槍で進むより外はない。

復原の前に「公の無効確認」を要する

 井上や誰彼が無効と言っただけでは駄目である。天下の万民が挙って「なるほど無効に違いない」と、うなずき合うのではなくてはならない。

 このようにして「公の無効確認」が行われなければならない。即ち復原の前に「無効の確認」がなさねばならない。無効の確認は、有効なものを無効にするのもなく、また、無効か有効かを審議して無効の審判をするのでもなく、本来「無効」であるものを、たしかに無効に違いないと確認するまでのことであって、それによって無効の事実を全国民に納得させるものである。
 そのためには、一私人、又は一私党の主張によって、無効が主張されるだけで充分であるとするのではなく、公の確認を必要とするのである。

 それが即ち「公の無効確認」である。公の無効確認があって、始めて現体制の公権的解釈も「無効」という真実に帰一し、憲法問題には挙国一致の真の安心立命が出来ることになる訳である。それは人心を一つにまとめるのに欠くことのできないことである。

実現 法の支配を確立せよ

 敗戦が無かったならば、占領はなく、占領がなければ正統憲法の不法廃棄もなく、占領憲法の不当成立もなく、不法不当の憲法廃立のことがなかったならば、憲法復元の法理の自覚も起こらなかったであろう。それと共に、占領終了、独立恢復の事がなければ、偽法消滅・正法復帰の法理が実現される機会はなかったであろう。法理の自覚は逆縁の恩寵であり、法理の実現は順縁の賜物である。

 実現の条件はすでに恵まれている。今は外来のいかなる制約もない。これを実現するか否かは、全く日本人の自由選択に任されている。日本人自身が独立国民としての良識に目覚め、この道理に気がつきさえすれば、何人も正法の復原を妨げるものはない。

 右は十六年前、昭和三十四年に世に問うた拙著『憲法研究』の「むすび」の初めの文章である。ここに表明されたこの思いは、今も少しも変わっていない。否、変わっていないのではない。その後の時勢の推移に鑑みて、いよいよ痛切であり、一日も早く「無効復原」の実現を願ってやまないのである。

事後の清算 万人易行の大道

 占領中の憲法変改は、国際法上も禁断されているし、本来当然自明の理法でもあるけれども、そしてまた、占領下の時限法が自主憲法の復原と共に失効すべきことも本来当然自明の理法であるけれども、最近はそれに対する背反が頻繁になり顕著になっている。

 それは法の支配が力の支配にその席を奪われつつあることを物語るものであって、これでは世界の法的秩序は、弛緩してしまって、「無法は強者の得」という強者の非違横暴が横行することになって、修羅の地獄に顛落してしまうこと必定である。

 占領中において、如何なる占領軍の不法不当の処置に対しても、憲法変改を事実上拒否することは、殆んど不可能である。わが日本がその事については、辛酸を嘗めさせられたところである。

 西ドイツが、占領中の憲法制定を拒否して基本法を制定し、更にその基本法が占領中の暫定法に過ぎないことを明記したことは偉とすべきであるが、何時でも何処でも、それが容認されるとは限らず、またフランスのように、たとい占領中の憲法改正禁断の旨が、憲法に明記してあっても、将来現実に占領されるような場合には、その明文が蹂躙されることもありうる。それが占領の実体である。

 それは国際法の規定が明確であるにもかかわらず、それを蹂躙して「日本国憲法」を強要した占領の事実によっても明白である。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」というような宣託も、人を騙すためなら効果はあろうが、自らそれを信じて晏如としているには、世界各国の実際は余りにも複雑怪奇すぎるのである。

 こういう事情にかんがみて、最もひどく痛い目に遭わされて来た日本は、どうしたら一番よいか、それは自然に自覚されておらねばならぬはずであると思う。

 即ちそれは、事中又は事前、即ち、占領中又は占領前においてよりも、事後即ち占領終了後において、占領中の憲法の無効確認及び正統憲法復原を実行することの方が、実際には遥かに有意義のことであり、しかもこの方が、どんな場合にも、何人にも、容易に、確実に、実行されうるということである。方法論としてもこの事後における清算は、万人易行の大道として、普遍性と確実性を有するのである。

復原と法の支配の確立

 占領とか革命とかの渦中で、暴力から国法を守り抜くことは困難であっても、事後におけるこのような救正が、確実に被害諸国家において実現される慣行が成立するならば、被占領者側においては、どんな暴圧にも屈せず、正統憲法を擁護する精神を堅持させ、他方占領者に対しては、不法不当の憲法紛更を差し控えることになるに違いない。

 こうなれば、占領・革命・クーデター等による憲法変革が、少なくとも事後においては、正統憲法の自動的復活を招来することとなり、内外の如何なる暴力も終にどうすることも出来ない「法の権威」が確立し、真の「法の支配」が確立されることとなる。

占領の最大教訓と日本の使命

 万世太平は人類の普遍的欣求である。その世界の平和は、法の権威の確立・法の支配の実現なくしては不可能である。しかるに最近の世界は国際法無視・法の権威蹂躙の傾向が多く、力の支配が方々に出没しつつある。法の支配の恢弘なくしては平和は実現すべくもない。わが国はその犠牲者としてその痛苦に満ちた経験を生かして逆縁の恩寵たらしめなければならない。

 正統憲法復原の道理が、わが日本において公式に実行されるならば、自らが法の支配を確立するだけではなくて、それによって、世界を通じての法の支配を可能にする端緒を開くことに貢献することが出来るであろう。

 他国のことには直接干渉するには及ばない。せめて自国内だけなりとも法の支配を実現し、それによって全世界の法の支配の前提要件を具備さすべきではなかろうか。

 それが有史以来の敗戦・占領の汚辱を受けた日本人が、その経験から自覚した最大の教訓であり、最高の使命ではないかと思うのである。

 いくそたび かき濁しても 澄みかへる 水やみくにの 姿なるらむ 八田知紀(現憲法無効論-憲法恢弘の法理


 我が国の過去には、皇族が臣籍に降下した後に皇族に復帰した例が少なからず存在し、彼らの中から二人が皇位を継承した。宇多天皇と醍醐天皇である。

 この事実は、旧宮家が皇籍に復帰することは皇室伝統に反しないことを証明する前例であり、これを知った国民の間から、皇室の伝統と皇族の御意見を無視して女性女系天皇の容認を打ち出した小泉内閣に対する激しい反発と憎悪が沸き上がり、旧宮家の皇室復帰を請願する運動が発生した。

 皇室の歴史は、世界遺産に匹敵する我が国の万世一系の皇統を護持する大きな力となっている。

 前例は力となる。そして民族の歴史は民族に大いなる力を与える。もしポツダム宣言違反、1907年ハーグ陸戦法規違反、そして帝国憲法違反のマッカーサー占領軍憲法(GHQ製日本国憲法)の無効廃棄と、近衛新体制-大政翼賛会の一党独裁をを阻止した大日本帝国憲法の復原改正が成就すれば、それは、あらゆる歴史書、憲法学書、教科書に特筆大書され、長い歳月を経て遂に真実を知るに至った日本国民は違法な力の支配すなわち暴力の支配を甘受することを潔しとはせず、それを覆滅して正統憲法を復原したことが、後世に伝えられる。

 この事実は、日本国民の脳裏と日本民族の無意識に刷り込まれ、やがて日本国民の常識となり、日本民族の誇りと行動様式(エトス)となり、後世の日本国において外国軍の占領や反乱軍のクーデターや反日左翼勢力の革命によって正統憲法が改廃された後に、日本国が為すべきことを日本国民に教える良き前例となる。

 占領軍憲法無効・正統憲法復原論は、醜いマッカーサー占領軍憲法を嫌う保守主義者の単なる懐古趣味ではない。
 
 占領軍憲法の無効・正統憲法の復原の積極的意義は、後世の日本国民のために、占領、革命、クーデターといった暴力から、法の支配と立憲主義の恩恵である自由、そして我が国の国体を防衛するための「日本民族の正統憲法復原力」を生み出すことにあるのだ。

 大日本帝國憲法には、軍隊に関する規定すなわち第十一條(統帥大権)、第十二條(編成大権)、第二十條(兵役の義務)、第三十二條(軍人の権利制限)、第六十條(軍法会議など特別裁判所の管轄)の他に、以下の非常事態対処規定がある。

第八條(議会閉会時の緊急勅令)
第十四條(戒厳の布告)
第三十一條(天皇の非常大権)
第七十條(議会召集不可能時の財政上必要の処分)
第七十五條(摂政設置時-国の変局時の典憲改変の不可)

 第七十五條は、1907年ハーグ陸戦法規第四十三条やこれに準拠する1946年フランス憲法第九十四条「本土の全部もしくは一部が外国軍隊によって占領されている場合は、いかなる憲法改正手続きも、着手され、または遂行されることはできない」と同じ役割を果たす優れた規定である。

 我が国の最高法規の地位を違法不当に占領しているマッカーサー占領軍憲法(GHQ製日本国憲法)より遙かに強靭な危機克服能力を持つ大日本帝國憲法(本当は怖い日本国憲法の話-30年前の予言書が指摘する日本の危機)が日本国に復活し、この事実が日本民族に正統憲法復元力を与えるに至れば、日本国は将来どんな迫害にも窮乏にも混乱にも耐えて暴力の支配に従属することなく、正統憲法を擁護し、法の支配を防衛していくに違いない。それこそ「いくそたび かき濁しても 澄みかへる 水」のように。

 天下の万民が挙って「なるほど占領軍憲法は最高法規としては無効に違いない」と、うなずき合う日が来ることを願い、井上孚麿の遺志を継いで、筆者は弊ブログを継続します。それが日本の独立と平和を維持する小さな努力と信じるからです。


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posted by 森羅万象の歴史家 at 03:00| 憲法学の名著と迷著 | 更新情報をチェックする